大蔵幕府旧跡の辺り(撮影:2007年10月17日)


1)鎌倉市雪ノ下三丁目、清泉小学校の前の道。


2)十字路の角に、懐かしいお店とポストがあります。


3)その向かい、清泉小学校の南西の角に『大蔵幕府旧跡』の石碑が建っています。


●鎌倉町青年会『大蔵幕府旧跡』石碑(大正六年三月)

今をへだてる七百三十七年の昔、治承四年(1180年)、源頼朝邸をこの地に営み、後、覇権を握るにおよびて、政をこの邸中に聴く。いわゆる大蔵幕府これなり。

爾来、頼家(頼朝嫡男、二代将軍)・実朝(頼家同母弟、三代将軍)を経て、嘉禄元年(1225年)、政子(頼朝妻、頼家・実朝母)薨じ、幕府の宇津宮辻に遷れるまで、この地が覇府の中心たりしこと、実に四十六年間なり。


4)清泉小学校の横を通って、頼朝の墓へ向かいます。


5)石段の上が頼朝の墓、左に白旗神社と『法華堂跡』の石碑があります。


6)『法華堂跡』の石碑。ここに頼朝の持仏を祀る堂があり、薨後、廟所となりました。


●鎌倉町青年団『法華堂跡』石碑(大正十三年三月)

堂はもと頼朝の持仏を祀れる所にして、頼朝の薨後、その廟所となる。

建保五年(1217年)五月、和田義盛叛して火を幕府に放てる時、将軍実朝の難を避けたるはこの処なり。

宝治元年(1247年)六月五日、三浦泰村これに篭りて北条の軍を邀(むか)へ、刀折れ矢尽きて、一族郎党五百余人とともに自尽し、満庭朱殷(しゅあん)に染めし処とす。


7)神仏分離令により法華堂を廃止し、明治五年(1872年)に白旗神社を建立。


8)石段を上ると、白幡神社の屋根が見えます。


9)頼朝の墓とされる石塔。安永八年(1779年)に薩摩藩主・島津重豪が建立。


10)清泉小学校の北東の角は、大蔵幕府の東門でした。西に進むと西御門もあります。


●鎌倉町青年団『東御門』石碑(大正十五年三月)

大蔵幕府に四門あり。方位を以て名づく。その東にあるものを東御門(ひがしみかど)といふ。今転じて地名となる。法華堂の東方一帯の地、すなわちこれなり。


●鎌倉町青年団『西御門』石碑(大正十五年三月)

西御門(にしみかど)は、法華堂西方の地をいふ。大蔵幕府西門の前面に当れるをもって、この名あり。報恩寺・保寿院・高松寺・来迎寺等、この地に在り。今、高松・来迎の二寺を存す。


11)荏柄天神社。大蔵幕府の開設にあたり、当社を鬼門の鎮守としました。


●鎌倉町青年団『荏柄天神』石碑(昭和四年十二月)

『和名鈔』当郡に「荏草」と記せる郷名あり。今、その名を失すれども、当社付近の旧称なりしがごとし。草に「かや」の古訓あれば、「えがら」は「えがや」の転訛なるを、後、文字をさえ今のごとく改めしものか。社前の松並木を、古来「馬場」と称す。

本社はもと、中央に管公(菅原道真)束帯の坐像、右方に天拝山祈誓の立像、左方に本地仏十一面観音の像を安置せしも、勧請の年代を伝へず。

頼朝公はじめて大蔵の地に幕府を設けし時、当社を以て鬼門の鎮守となす。爾来、歴代将軍の尊奉せし所。

天文年間(1532~1555年)、北条氏康社前に関を置き、関銭を取りて社料に供せしめし事あり。

徳川氏の世には、鶴岡八幡宮造営の節毎にその余材残木を受けて、本社修造に抵(あ)つるを例とせしと云ふ。


12)荏柄天神社の本殿。祭神は菅原道真、長治元年(1104年)の創建と伝えます。


13)荏柄天神社のおみくじと絵馬。


14)カナヘビ(荏柄天神社の石段)。


15)荏柄天神社の大銀杏の実。勝手に持ち帰ってはいけません。


16)荏柄天神社の本殿前から南を望みます。


17)神奈川県道204号線(金沢街道)の「大御堂橋」交差点。勝長寿院跡へ向かいます。


18)大御堂の谷戸の中ほどに、『勝長寿院旧跡』の石碑が建っています。


●鎌倉町青年会『勝長寿院旧跡』石碑(大正六年三月)

院は文治元年(1185年)源頼朝の先考(亡父)義朝を祀らんがために草創する所。一に南御堂(みなみみどう)、また大御堂(おおみどう)と言ふ。この地を大御堂ヶ谷(おおみどうがやつ)と言ふは、これが為なり。

実朝および政子もまた、この地に葬られたりと伝へらるれども、その墓、今は扇ケ谷寿福寺にあり。


19)頼朝の父・源義朝とその腹心・鎌田政家の墓。


20)大御堂の谷戸の奥から麓を望む。かって、谷戸全体が寺域だったのでしょうか。


21)荏柄天神社へ戻り、鎌倉宮(大塔宮)を経由して永福寺跡へ向かいます。


22)文治五年(1189年)、奥州より凱旋した源頼朝は永福寺(二階堂)を建立します。


●鎌倉町青年会『永福寺旧蹟』石碑(大正九年三月)

永福寺、世に二階堂と称す。今に二階堂なる地名あるは、これがためなり。

文治五年(1189年)、頼朝奥州より凱旋するや、かの地大長寿院の二階堂に擬して、これを建立す。輪奐荘厳(高大壮麗)、まことに無双の大伽藍たりきと云ふ。

亨徳年間(1452~1455年)、関東管領の没落せる頃より後、全く頽廃す。


23)鎌倉市教育委員会『国指定史跡・永福寺跡』説明板。


23a)説明板の図の部分です。


●鎌倉市教育委員会『永福寺跡』説明板

永福寺は源頼朝が建立した寺院で、源義経や藤原泰衡をはじめ奥州合戦の戦没者の慰霊のため、荘厳なさまに感激した平泉の二階大堂大長寿院を模して建久三年(1192年)、工事に着手しました(注記:一般には、建久三年は二階堂完成の年とされます)。

鎌倉市では、史跡の整備に向けて昭和五十六年から発掘調査を行い、中心部の堂と大きな池を配した庭園の跡を確認しました。堂は二階堂を中心に左右対称で、北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂の両脇堂が配され、東を正面にした全長が南北130メートルに及ぶ伽藍で、前面には南北100メートル以上ある池が造られていました。

市では昭和四十二年度から土地の買収を行なっており、今後は史跡公園としての整備事業も進めていく予定です。


24)永福寺跡。手前には池が広がっていたとされます。


25)永福寺跡。崖のあたりを背に、伽藍が並んでいたのでしょうか。


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