北条執権邸旧跡の辺り(撮影:2007年10月23日)


1)鶴岡八幡宮の前で若宮大路を東に折れると、つきあたりが宝戒寺です。


2)宝戒寺の山門。門の手前に『北条執権邸旧蹟』の石碑が建っています。


3)鎌倉町青年会『北条執権邸旧蹟』石碑(大正七年三月)

往時、この地に北条氏の小町亭在り。義時(二代執権)以後累代の執権、おおむね皆これに住せり。

かの相模入道(北条高時、十四代執権)が朝暮に宴筵(えんえん)を張り、時に田楽法師に対し列座の宗族巨室とともに直垂・大口を争ひ解きて、纏頭(てんとう)の山を築けりと言ふもこの亭なり。

元弘三年(1333年)、新田義貞乱入の際、灰塵に帰す。

今の宝戒寺は、建武二年(1335年)足利尊氏が高時一族の怨魂忌祭のため、北条氏の菩提寺東勝寺をこの亭の故址(こし)に再興し、もってその号を改めしものなり。


4)宝戒寺本堂。


5)宝戒寺の裏手には滑川が流れ、宝戒寺橋が架かっています。


6)宝戒寺橋から滑川と東勝寺橋を望みます。

東勝寺橋のたもとに『青砥藤綱旧跡』の石碑が建っています。


7)鎌倉町青年団『青砥藤綱旧蹟』石碑(昭和十三年三月)

『太平記』によれば、藤綱は北条時宗(八代執権)・貞時(九代執権)の二代に仕へて引付衆につらなりし人なるが、かって夜に入り出仕の際、誤って銭十文を滑川に堕し、五十文の続松(松明)を購ひ、水中を照らして銭を捜し、ついにこれを得たり。

時に人々、「小利大損かな」とこれを嘲る。藤綱は「十文は小なりといえどもこれを失へば天下の貨を損ぜん。五十文は我に損なりといえども、また人に益す」旨を訓ぜしといふ。

すなわちその物語は、このあたりにおいて演ぜられしものならんと伝へらる。


8)東勝寺橋から東勝寺跡への道。往時も狭い急坂だったのでしょうか。


9)鎌倉市教育委員会『国指定史跡・東勝寺跡』説明板

東勝寺は、十三世紀前半に鎌倉幕府の三代執権北条泰時が創建した寺院です。元弘三年(1333年)、新田義貞らの鎌倉攻めの時、北条高時以下の一族郎党がここにたてこもり、火をかけて最期をとげました。

寺はその後直ちに再興され、室町時代には関東十刹の第三位に列する名刹となりましたが、戦国時代には廃絶したとされています。

北条得宗家の氏寺跡、鎌倉幕府滅亡の地として政治史的に極めて重要な遺跡で、昭和五十一年、平成八・九年に行なった発掘調査により寺院跡の一部が確認されています。


●文化庁『東勝寺跡』解説文

国指定史跡「東勝寺跡」は、国指定史跡「鶴岡八幡宮境内」の南東、滑川を渡った葛西ヶ谷と呼ばれる谷戸に立地する。滑川の西岸には、最後の北条氏得宗・高時一族の菩提を弔うために、後醍醐天皇が高時邸跡に建立した宝戒寺がある。宝戒寺のある市街地と葛西ヶ谷とを結ぶ橋は東勝寺橋という。

東勝寺は青龍山と号し、開基は三代執権の北条泰時、開山は栄西の弟子の退耕行勇である。当初は禅密兼修の北条得宗家の氏寺で、正確な創建年代は不詳だが、開山の退耕行勇は仁治二年(1241年)に東勝寺で没している。元弘三年(1333年)五月二十二日、新田義貞等の鎌倉攻めにより屋敷を焼かれた北条高時は、葛西ヶ谷に引き籠もり、東勝寺の伽藍堂舎に火をかけて、一族郎党以下八百七十余人とともに自害して果て、鎌倉幕府は滅亡した(『太平記』)。東勝寺はその後直ちに再興され、室町時代には関東十剰の第三位に列する名刺であったが、元亀四年(1573年)には旧東勝寺の所領が建長寺の僧侶に与えられていたことが明らかであり(仏日庵文書)、この頃には廃絶していたと考えられる。

葛西ヶ谷は、滑川で限られた西に向かって開口する谷戸(約10万ヘクタール)で、貞享二年(1685年)刊行の『新編鎌倉志』にはこの地が東勝寺の旧跡であると記載されている。

谷戸は三つの支谷に分かれており、指定予定地は、北側及び中央の支谷とその周辺の丘陵部で、「高時腹切やぐら」と通称される八百七十余人首塚を含む範囲である。

昭和五十・五十一年と平成八・九年に、北側及び中央の支谷を中心に、発振調査が行われた。出土遣物の年代や炭化物層及び被熱の状況から、元弘三年には存在していたと推定される、鎌倉石の切石を積み上げた石垣、切石を敷いた坂道、岩盤を掘削した溝、門跡と推定される地覆石列、礎石建物1棟(柱間6尺6寸、2間×4間以上)、擁立柱建物1棟(柱間7尺、4寸角柱、桁行7間以上×梁間4間)等の遺構が良好に遺存していることが確認された。北条氏の家紋である三鱗文の瓦が出土したことにより、ここが近世地誌の記載や伝承のとおり東勝寺跡の重要な一画であることが判明した。出土遺物には、一般の寺院跡ではみられない中国産の獣足青磁香炉・獣足褐軸香炉・天目茶碗、国産の古瀬戸朽葉文壷等が多数含まれており、流通と対外貿易を掌握していた北条得宗家の氏寺跡ならではの優品として注目される。

発掘調査と併せて実施した周辺部の地形調査では、滑川を前面の堀とし、丘陵部に崖を切り落とした人工的な切岸、削平平場を配置して要害化した状況がよく残っており、城郭的な色彩の強い寺院構造であったことが確認されている。東勝寺は、北条得宗家の邸宅のすぐ東側に位置し、政権の最高権力者の得宗家を守ることを目的の一つとして建立されたことは明らかである。

東勝寺跡は、北条泰時が創建した得宗家の氏寺跡で、鎌倉幕府、北条氏得宗・高時一族の終蔦の地となった。城郭的な機能を持った寺院跡としても特異であり、禅宗寺院としての寺格も高く、遺構・遺物の遺存状態も良好である。よって、史跡に指定し保存を図ろうとするものである。

注記:原文の誤記と思われるものは適宜改変しました。


10)東勝寺跡。


11)東勝寺跡。


12)東勝寺跡の奥は祇園山ハイキングコースの入口になっています。

そのすぐ左手に『東勝寺旧跡』の石碑が建っています。


13)鎌倉町青年会『東勝寺旧蹟』石碑(大正七年三月)

元弘三年(1333年)五月、新田義貞鎌倉に乱入するや、高時小町の邸を後に、父祖累世の墓所東勝寺にこもり、百五十年来殷賑を極めし府下、邸第・肆店(してん)の今や一面に焔煙のみなぎる所となるを望見しつつ、一族門葉八百七十余人と共に自刃す。

その北条執権史終局の惨澹たる一駒は、実にこの地において演ぜられたるなり。


14)高時腹切りやぐら。


15)祇園山ハイキングコースの道標。見晴台へ向かいます。


16)ハイキングコースからかすかに鶴岡八幡宮が見えます。


17)祇園山見晴台から見た稲村ヶ崎。新田義貞はここから鎌倉へ攻め込みました。


◇BACK:鎌倉の撮影地【グレゴリウス写真館の目次】

◇HOME:グレゴリウス写真館