極楽寺坂と稲村ヶ崎(撮影:2007年11月13日)


稲村ヶ崎(鎌倉)

1)由比ヶ浜から稲村ヶ崎を望む。

鎌倉七口のひとつ、極楽寺坂ないし極楽寺切通は、坂ノ下から極楽寺を経て、七里ヶ浜に至ります。そこから、腰越・片瀬を経て、東海道を京の都へ上ります。


坂ノ下(鎌倉)

2)由比ヶ浜の西端、坂ノ下付近の海岸。


坂ノ下交差点(鎌倉)

3)国道134号線の「坂ノ下」交差点。ここを右に入ります。


星の井通り交差点(鎌倉)

4)入るとすぐに「星の井通り」交差点があります。ここを左に曲がります。


極楽寺坂(鎌倉)

5)道が坂になってきました。正面は虚空蔵堂、その手前に星の井があります。


星月井の石碑(鎌倉)

6)鎌倉町青年団『星月井』石碑

「星月夜ノ井」は、一に「星ノ井」とも云ふ。鎌倉十井の一なり。坂ノ下に属す。往時、この付近の地、老樹蓊鬱(おううつ)として、昼なお暗し。ゆえに称して「星月谷」と曰ふ。後、転じて「星月夜」となる。井名、けだし、これに基く。里老言ふ「古昔、この井中、昼も星の影見ゆ。ゆえにこの名あり。近傍の卑女、誤つて菜刀を落せしより以来、星影また見えざるに至る」と。この説、最も里人のために信ぜらるるが如し。

慶長五年(1600年)六月、徳川家康、京師よりの帰途、鎌倉に過り、特にこの井を見たることあり。もって、その名、世にあらはるるを知るべし。水質清冽、最も口に可なり。


星の井(鎌倉)

7)星の井。


極楽寺坂の石碑(鎌倉)

8)鎌倉町青年団『極楽寺坂』石碑

この所、往古、畳山なりしを、極楽寺開山忍性菩薩、疏鑿(そさく)して一条の路を開きしと云ふ。すなわち、「極楽寺切通」と唱ふるはこれなり。元弘三年(1333年)の鎌倉討入りに際し、大館次郎宗氏・江田三郎行義は新田軍の大将としてこの便路に向ひ、大仏陸奥守貞直は鎌倉軍の大将としてこの所を堅め、相戦ふ。


極楽寺坂(鎌倉)

9)今も昼なお暗い極楽寺坂。上りきったところに寺と江ノ島電鉄線の駅があります。


極楽寺の説明板

10)極楽寺山門前の真言律宗『極楽寺』説明板。

霊鷲山極楽寺と号し、開山は忍性菩薩です。忍性は広く慈善救済事業を行ない、人々から尊崇されました。本尊の釈迦如来立像は秘仏で重要文化財に指定されています。


極楽寺本堂(鎌倉)

11)極楽寺の山門の外から本堂を覗く。境内は撮影禁止です。


極楽寺駅(鎌倉)

12)江ノ島電鉄線の極楽寺駅。


極楽寺駅付近(鎌倉)

13)坂を南西に下って極楽寺方面を振り返る。これから七里ヶ浜方面へ向かいます。


阿仏邸旧蹟の石碑(鎌倉)

14)鎌倉町青年会『阿仏邸旧蹟』石碑

阿仏は、藤原定家の子為家の室にして、和歌の師範家冷泉家の祖為相の母なり。為相の異母兄為氏、為相に属すべき和歌所の所領播磨細川庄を横領せるをもって、これを執権時宗に訴へ、その裁決を乞はんとし、建治三年(1277年)京を出でて東に下り、居を月影ガ谷に卜す。すなわち、この地なり。その折の日記を『十六夜日記』と云ひて、世に知らる。係争久しきにわたりて決せず。弘安四年(1281年)、ついにここに歿す。


江ノ電

15)江ノ島電鉄線の藤沢行きの電車。


稲村ヶ崎駅(鎌倉)

16)江ノ島電鉄線の稲村ヶ崎駅。


稲村ヶ崎付近(鎌倉)

17)稲村ヶ崎駅から七里ヶ浜へ出る道。国道134号線を渡ります。


稲村ヶ崎(鎌倉)

18)七里ヶ浜から稲村ヶ崎の西面を望む。


●鎌倉町青年会『稲村崎』石碑(大正六年三月)

今をへだてる五百八十四年の昔、元弘三年(1333年)五月二十一日、新田義貞、この岬を廻りて鎌倉に進入せんとし、金装の刀を海に投じて潮を退けんことを海神に祈れりと言ふは、この処なり。


ボート遭難慰霊碑(鎌倉)

19)ボート遭難慰霊碑。稲村ヶ崎は鎌倉海浜公園の一地区として整備されています。


富士山(稲村ヶ崎より)

20)稲村ヶ崎から富士山を望む。右手は七里ヶ浜と小動崎。


江ノ島(稲村ヶ崎より)

21)稲村ヶ崎から江ノ島を望む。遠景のシルエットは箱根山。


稲村ヶ崎(鎌倉)

22)国道134号線の切通しを抜けて、稲村ヶ崎の東面を望む。


坂ノ下(鎌倉)

23)国道134号線沿いに、坂ノ下交差点の方向を望む。出発地点へ戻っています。


稲村ヶ崎のタイル(鎌倉)

24)舗装のタイル(鎌倉海浜公園・坂ノ下地区)。


坂ノ下の街路樹(鎌倉)

25)街路樹(鎌倉海浜公園・坂ノ下地区)。


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