野毛山公園(撮影:2007年12月6日)


1)JR桜木町駅から地下道を抜けて野毛坂方面へ向かいます。


2)野毛坂交差点。正面左手が野毛山公園の入口です。


3)野毛山公園は、散策地区・配水池地区・野毛山動物園の三区に分かれています。


●横浜市『野毛山公園』案内板

野毛山公園は、日本の公園発祥の地である横浜で、横浜公園や掃部山公園に次ぐ長い歴史を持つ公園です。

明治時代の野毛山は豪商たちの屋敷が立ち並ぶ住宅地でした。現在の散策地区には生糸貿易で財を築いた原善三郎の邸宅が、現在の野毛山動物園の区域には茂木惣兵衛の別荘がありました。

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の際に野毛山も大きな被害を受けました。震災後、被災地復興事業の一環で、都市防災の要地、また市民の憩いの場として、野毛山に公園を建設することになりました。横浜市が買収した民有地、復興局が買収した茂木別邸跡地と市水道浄水場、市長公舎を含む市所有地をあわせ公園用地を取得し、1925年(大正14年)に着工、翌1926年(大正15年)に一般公開されました。

開園当時は回遊式日本庭園(現在の野毛山動物園)・西洋庭園(現在の配水池地区)・折衷庭園(現在の散策地区)の三つの様式を持っていました。

その後、第二次大戦中は陸軍が使用し、戦後は1947年(昭和22年)まで米軍に接収され、公園として利用できない時期が続きました。

米軍の接収解除後、1949年(昭和24年)に横浜で日本貿易博覧会が開催されました。第一会場に野毛山公園、第二会場に反町公園を利用して開催された博覧会は野毛山公園を現在の形に整備する契機となりました。日本庭園だった部分は動物園になり、洋式庭園部分には噴水池が設けられました。噴水池は博覧会終了後、競泳用プールに改築され、同年開催された第4回国民体育大会夏季水泳大会の会場となりました。

さらに1951年(昭和26年)には洋式庭園だった部分に児童遊園が造られ、児童遊園と動物園をあわせて「野毛山遊園地」として開園しました。児童遊園には豆電車、メリーゴーランドなどの遊戯機械や横浜の街並みが見渡せる展望台が設けられ賑いました。この頃、様々なイベントや集会、映画のロケなどが園内で開かれ、まさに横浜市の中央公園の役割を担っていました。

1964年(昭和39年)明治時代に作られた野毛山配水池の老朽化により、水道配水池整備工事によって配水池を地下に新設することになり、児童遊園を閉鎖して整備をすることとなりました。地下配水池整備後は地上部を公園とし、動物の広場、子供の広場が設けられ、現在の野毛山公園の形になりました。


4)散策地区の石段。


5)中村汀女の句碑。横浜に移り住んだ汀女は、高浜虚子に師事しました。


6)『ラジオ塔』説明板

このラジオ塔はラジオの聴取契約者が百万人を越えた記念に、日本放送協会が昭和七年に全国の著名な公園や広場に建てる計画が進められ、昭和七年度から昭和八年度中に四十一ヵ所が完成して、その中に野毛山公園も選ばれ建塔されたものです。


7)これがラジオ塔のようです。


8)散策路から見下ろす庭園の池。


9)野毛山からは横浜ランドマークタワーがよく見えます。


10)佐久間象山顕彰碑。嘉永五年(1852年)、象山は幕府に横浜の開港を提言します。


11)散策地区・配水池地区・野毛山動物園の三区を結ぶ歩道橋。


12)歩道橋を渡ると、旧野毛山配水池の跡があります。


13)旧野毛山配水池の塔。


14)歩道橋と、配水池地区のヘンリー・スペンサー・パーマーの像。


15)明治二十年(1887年)、パーマーは道志川から野毛までの水道を完成させました。


16)現在、地下配水池が整備され、上部が公園となっています。


17)配水池地区の南側。


18)配水池地区の東側。歩道橋を戻って、野毛山動物園へ向かいます。


後編「野毛山動物園」もご参照ください。


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