鎌倉大仏(撮影:2007年12月27日)


鎌倉大仏

●文化庁『鎌倉大仏殿跡』解説文

国指定史跡「鎌倉大仏殿跡」は、国指定史跡「大仏切通」の南東約350メートル、鎌倉市長谷の谷部に所在し、国宝「銅造阿弥陀如来坐像」は、鎌倉大仏、露坐の大仏として親しまれている。


鎌倉大仏殿跡(高徳院)

鎌倉大仏及び大仏殿は、勧進の裁許をはじめ、鎌倉幕府の全面的な支援で造営されたと考えられる。

鎌倉大仏は、建長四年(1252年)八月十七日に鋳造を開始した金銅の「八丈釈迦如来像」(『吾妻鏡』)であるとされており、文永元年(1264年)八月在銘の金峰山寺蔵王堂鐘銘に「新大仏鋳物師丹治久友」とあることから、遅くともこれ以前には完成していた。

同五年の日蓮書状に「大仏殿別当」とあることから、寺院名は「大仏殿」で、大仏殿建物もこの頃には完成していたと考えられる。


鎌倉大仏

大仏殿は、嘉元三年(1305年)頃に倒壊し、元徳元年(1329年)には翌年の関東大仏造営唐船の発遣が決まり(『金沢文庫文書』)、再建が図られたが、建武元年(1334年)に大風で倒壊した(『太平記』)。応安二年(1369年)にも大風で倒壊し、これ以降は再建の記録がない。

文明十八年(1486年)に大仏を訪れた万里集九は、堂宇はなくて露坐であったと記している(『梅花無尽蔵』)。


鎌倉大仏殿跡(高徳院)

大仏は、南北朝期頃から江戸前期にかけて建長寺の管理下に置かれていた。

元禄十六年(1703年)の大地震で破損したが、正徳二年(1712年)に江戸浅草の豪商、野島新左衛門から寺地屋敷等の寄進を受けた増上寺祐天上人によって復興され、別当寺は新左衛門の法名から高徳院と命名された。享保十八年(1733年)に養国上人が高徳院初代住職となり、元文二年(1737年)に大仏修理が行われた。

江戸時代初期にはヨーロッパ人宣教師や平戸商館長などが訪れて、大仏をヨーロッパに紹介している。江戸末期には外国人の横浜居留地からの鎌倉遊覧が許可され、多くの欧米人が大仏を訪れている。


鎌倉大仏

平成十二年度から十三年度に、鎌倉市教育委員会が大仏周辺の発掘調査を行い、大仏鋳型の周囲に順次土を盛り上げていった斜めの土層の鋳造遺構を確認した。この堆積土は大仏鋳造後に削平され、大仏殿の礎石を据えるための根固め工事が行われていた。

根固め遺構は、直径約3メートル、深さ約2メートルの穴を掘り、砂利と凝灰岩を交互に突き固めており、大仏を中心に方形に配置されている。

大仏殿跡は、桁行145尺(43.94メートル)、梁行140尺(42.42メートル)、中央柱間27尺(8.18メートル)、脇柱間22尺(6.67メートル)の五間四方で、周囲に柱間15尺(4.55メートル)の裳階が付く建物であると復元された。


鎌倉大仏殿跡(高徳院)

大仏殿跡は大仏と同様に南面しており、根固め遺構と大仏との位置関係も整合することから、大仏は創建以来位置も向きも不変であること、創建当時の大仏殿の東側から南側は広い沼や湿地帯が広がっていたこと、南側は十三世紀末頃に埋め立てられて参道が造られたことが確認された。

現在、高徳院境内には直径約2メートル、厚さ約60センチメートルの円盤状の安山岩製礎石が53個散在しており、これらが根固め遺構の上に据えられていたと推定される。この形式の礎石は建長寺や極楽寺の礎石と共通しており、大仏殿も中国から導入された建築様式であったと考えられる。

鎌倉市教育委員会による発掘調査でも、これまでの遺物採取調査でも瓦片が確認されていないことから、大仏殿屋根は初期の建長寺と同様の杮葺ないしは桧皮葺であったと推定される。


鎌倉大仏

鎌倉大仏殿跡は、関東鎮護のために鎌倉幕府が造営した大仏の鋳造過程を示す遺構と大仏殿建物跡の遺構などが良好に遺存しており、背景の山稜までも含めて史跡に指定して保護を図ろうとするものである。


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