東海道川崎宿(撮影:2008年1月9日)


1)京浜急行線の六郷土手駅から川崎駅方面を望む。東京都大田区から出発です。


2)止め天神。六郷土手駅から多摩川へ出るところにあります。


3)第一京浜(国道15号線)の六郷橋。東京都側から川崎市側を望む。


4)六郷橋を渡ります。


5)六郷橋から多摩川の下流方面を望む。江戸時代の面影が偲べるでしょうか。


6)第一京浜の脇から多摩川の川崎市側へ下ります。


7)川崎市『六郷の渡し』説明板

関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ、東海道の交通を遮る障害でもありました。

そこで慶長五年(1600年)、徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688年)七月の大洪水で流されたあとは、架橋をやめ、明治に入るまで船渡しとなりました。

渡船は、当初江戸の町人らが請け負いましたが、宝永六年(1709年)三月、川崎宿が請け負うことになり、これによる渡舟収入が宿の財政を大きく支えました。


8)明治天皇六郷渡御碑。『武州六郷舩渡図』のレリーフがはめ込まれています。


9)明治元年(1868年)、天皇行幸の際、船橋を作って渡りました。


10)多摩川の流れを見るユリカモメさん。


11)六郷の渡しから川崎宿へ入ります。

徳川幕府により東海道に宿駅伝馬制度が敷かれたのは、慶長六年(1601年)のことです。川崎宿はそれより遅れること二十二年、元和九年(1623年)に、品川・神奈川両宿の伝馬負担を軽減するため開設されました。宿駅は小土呂・砂子・新宿・久根崎の四つの村で構成されていました。


12)本町一丁目交差点。


13)田中本陣跡。小児科医院になっています。


14)『田中本陣』説明板。主人の田中休愚は、本陣・名主・問屋の三役を兼務。


15)砂子の里資料館。東海道川崎宿をテーマにした資料館ですが、休館でした。


16)砂子一丁目交差点。振り返る方向から。らんぷ亭のところが、中の本陣でした。


17)らんぷ亭の脇の『中の本陣』と『問屋場跡』の案内板。


18)砂子交差点。市役所通りと交差します。


19)脇道を覗くと、仲見世通りでした。


20)『佐藤本陣跡地』説明板。


21)小土呂橋交差点。新川通りと交差します。


22)脇道を覗くと、名画通りでした。


23)川崎市『川崎宿京入口』説明板

宿場の入口には切石を積んだ土居があり、これを出ると謂ゆる八丁畷の一本道、土居内は832間、このなかに小土呂・砂子・新宿・久根崎の、宿を構成する四つの町があった。

江戸時代後期における人口は770戸、3,100人余りであり、伝馬役を負担する農民のほか、旅籠・大工・傘職・仏師・左官・桶職・経師・指物師などさまざまの商人や職人が住んでいた。

文久二年(1862年)外国人遊歩区域となった当宿には、この土居付近に外人警護のため第一関門が設けられ、以下保土ヶ谷宿まで十九ヶ所に設けられた関門番所には、宿役人二名、道案内三名などが詰めて警戒にあたり、非常の際は半鐘を鳴らし、隣りの番所と連絡をとったのである。


24)川崎警察署東側入口交差点。市電通りと交差します。歩道橋から撮影。


25)NTTドコモ川崎ビルのアンテナ。歩道橋から撮影。


26)川崎市教育委員会『芭蕉の句碑』説明板

俳聖松尾芭蕉は、元禄七年(1694年)五月、江戸深川の庵をたち、郷里伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある

 麦の穂を/たよりにつかむ/別れかな

の句にたくしました。

芭蕉は「さび」「しおり」「ほそみ」「かろみ」の句風、すなわち「蕉風」を確立し、同じ年の十月、大坂で

 旅に病んで/夢は枯野を/かけめぐる

という辞世の句をのこし、五十一歳の生涯をとじました。

それから百三十余年後の文政十三年(1830年)八月、俳人一種は、俳聖の道跡をしのび、天保の三大俳人のひとりに数えられた師の桜井梅室に筆を染めてもらい、この句碑を建てました。


27)芭蕉の句碑「麦の穂を/たよりにつかむ/別れかな」。


28)京浜急行線の八丁畷駅。旧東海道は踏切を渡って神奈川宿へ向かいます。


◇BACK:神奈川県の東海道宿【グレゴリウス写真館の目次】

◇HOME:グレゴリウス写真館