東海道藤沢宿(撮影:2008年1月30日)


1)旧東海道は、神奈川県道30号線に入り、遊行寺坂を下ります。


2)坂の途中に『見附跡』の標柱があります。藤沢宿の江戸方の入口です。


3)遊行寺の脇に沿って、坂が続きます。


4)県道30号線の遊行寺交差点。やや先を右折すると、遊行寺の正面へ出ます。


5)遊行寺の黒門と、いろは坂。坂には石段が四十八段あります。


6)遊行寺の本堂。右手前は、豆まきの舞台のようです。

遊行寺は、正中二年(1325年)に遊行四代呑海上人によって藤沢の地に開かれ、時宗の総本山となっています。清浄光寺が公式の寺名ですが、遊行上人の寺ということから遊行寺と呼ばれます。時宗は、念仏勧進しつつ全国を遊行した一遍上人によって開かれました。


7)遊行寺境内、宗祖一遍上人像。


8)遊行寺正面の遊行寺橋。旧東海道は、境川を渡り、国道467号線へ出ます。


9)国道467号線。藤沢橋付近から北西を望みます。


10)藤沢市役所の藤沢橋自動車排気ガス測定局。


11)国道467号線を進みます。土蔵造りの紙店と、『昔話のある町』の立札。


12)路地を入り、藤沢公民館へ寄り道します。


13)公民館の角に『藤沢御殿跡』の説明板があります。

江戸時代のはじめ、藤沢宿には本陣がなく、遊行寺やそのほかの寺院も将軍や大名が泊まるには十分でありませんでした。

そこで、慶長元年(1596年)ころ、藤沢公民館の北よりのところに、約六千坪もの広さを持つ将軍の御殿(宿舎)が建てられ、徳川家康をはじめ秀忠・家光が泊まっています。

御殿や宿場は、御殿の南にあった陣屋の代官に管理されましたが、やがて門構えや玄関・書院などを備えた本陣・脇本陣が出来ることで使われなくなり、天和二年(1682年)ころには廃止されたようです。


14)国道467号線に戻ります。ラーメン店の前に『蒔田本陣跡』の標柱があります。


15)妙善寺。永正元年(1504年)の創建。本陣を務めた蒔田家の墓があります。


16)国道467号線の市民病院入口交差点。左の路地を入ると永勝寺があります。


17)永勝寺。

境内の墓地の中に、飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵の墓があります。その周りに並ぶ飯盛女の墓は、この源蔵が建てたものです。39基の墓石には48体の法名が刻まれていて5体は男です。借金の形など苦界の中で身を沈めた者が多い中、このように供養された者は少なく、小松屋の温情がしのばれます。


18)永勝寺境内、飯盛女の墓碑群。


19)『伝源義経首洗井戸』の標柱。国道467号線を戻る方向を見ています。


20)路地の奥に、井戸と『伝源義経首洗井戸』の説明板があります。

『吾妻鏡』という鎌倉幕府の記録によると、兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)でなくなり、文治五年(1189年)に藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られてきました。

義経の首は首実検ののち、腰越の浜へ捨てられました。それが潮に乗って境川をさかのぼり、この辺に漂着したのを里人がすくいあげ、洗い清めた井戸と伝えられます。


21)白旗交差点。国道467号線は右折し、旧東海道は直進して県道43号線に入ります。


22)いったん右折して、白旗神社へ寄り道します。


23)白旗神社の本殿。

この神社は、古くは相模国一之宮の寒川比古命の分霊を祀って、寒川神社と呼ばれていました。

『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気を受け、文治五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉の衣川館において自害しました。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られ、腰越の宿で和田義盛・梶原景時によって首実検が行われました。

伝承では、弁慶の首も同時に送られ、首実験の後、夜の間に二つの首はこの神社に飛んできたとされます。このことを頼朝に伝えると、白旗明神としてこの神社に祀るように指示がありました。義経を祀ることで、白旗神社と呼ばれるようになりました。


24)県道43号線へ入ると、まもなく伊勢山橋があります。


25)伊勢山橋。下は小田急線の線路が通っています。


26)伊勢山橋の脇から見る小田急線の藤沢本町駅。


27)県道43号線沿い、中華料理店隣りに『見附跡』の標柱があります。


28)旧東海道は見附を出ると、県道43号線をさらに西進して平塚宿へ向かいます。


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