相模国分寺跡(撮影:2008年3月4日)


1)海老名駅前の海老名中央公園。


2)中央公園の海老名市観光シンボルモニュメント「七重の塔」。


3)海老名市観光協会『七重の塔』の説明板。

七重の塔は、天平十三年(741年)、聖武天皇の「国分寺建立の詔」をうけて建立された相模国分寺の伽藍の一つです。

国分寺の塔には、国家の平和を祈る金光明最勝王経が安置されていました。過去二回行われた発掘調査によると基壇は一辺の長さが20.4メートル、高さは1.3メートルの規模で、残存する礎石から塔の初重の広さは10.8メートル四方、塔の高さは65メートルにも及ぶものであったと推定されています。

また、基壇周辺で発掘された石垣や盛り土から、二回の修理もしくは建て替えが行われたことも分かりました。

この塔は、海老名市観光協会が、故大岡實氏の復元図を基に実物大の約三分の一のスケールで建設したモニュメントであります。


4)中央公園から神奈川県道40号線へ出て、東へ進みます。


5)県道40号線の国分坂下交差点。


6)県道40号線沿いの高台に「高野山真言宗相模国分寺」があります。


7)本堂前の梅。


8)本堂前の梵鐘。


9)本堂の『国分寺』の額。

当寺は、天平年間聖武天皇の勅願によって建立された「相模国分寺」であり、寺伝によれば、行基菩薩此地を点して七つの精舎を建て、本尊薬師如来ならびに日月大士の像を自ら彫刻して祭るとあり、以来時代とその変遷をともにし、源頼朝の時に一時その荘厳を維持するも、南北朝を経て戦乱の時代に入り、兵災に罹り堂塔以下悉く灰燼に帰したが、幸に寺域の一部丘陵の上に残った薬師堂を現在の境内に移し再興された。

現存の梵鐘は、物部国光の作、正応五年(1292年)に海老名氏一族の源季頼が国分尼寺に寄進したものであって、国の重要文化財に指定されている。


10)本堂から北西に下ると、『国分寺史跡』の案内標識があります。


11)案内標識の方向へ進むと、相模国分寺跡の南西の角へ出ます。


海老名市『史跡相模国分寺跡環境整備事業』説明板

相模国分寺は、天平十三年(741年)の「国分寺建立の詔」によって全国に建立された寺院の一つです。

弘仁十年(819年)と元慶二年(878年)に相模国分寺が被災したという記録が残っていますが、天慶三年(940年)には相模国分寺の仏像が汗をかいたという記録があることや発掘調査の結果等から、平安時代中頃までは修理や再建が行われていたようです。

しかし、平安時代後期には荒れ果て、やがて現在の国分寺の場所に移転したといわれています。

相模国分寺跡は、江戸時代に書かれた「新編相模国風土記稿」の挿し絵にも遺跡が描かれているほど古くから知られていました。

明治時代後半から大正時代にかけて尋常高等海老名小学校(現在市立海老名小学校)の校長であった中山毎吉が相模国分寺跡や国分尼寺跡などの遺跡を調査して、矢後駒吉とともに「相模国分寺志」という研究書にまとめました。

こうした中山毎吉等の調査研究や保存運動により大正十年(1921年)三月三日に相模国分寺跡は「国指定史跡」となりました。

海老名市では貴重な文化遺産である史跡相模国分寺跡を現状のまま保存するだけではなく、復元・整備をする環境整備事業を平成元年度(1989年)から始めました。

昭和四十一年から四十二年(1966~67年)の発掘調査結果をもとに、平成二年から八年(1990~1996年)にかけて塔跡、中門跡、南面廊跡、僧坊跡等の発掘調査を行い、史跡整備に必要な資料をそろえました。

基本的な整備計画は、相模国分寺の創建時の遺構を整備することにしました。具体的には、塔・金堂・講堂の基壇復原、中門・廊跡・僧坊跡等の位置表示を行い、現存する礎石は現位置で保存する計画です。


11a)海老名市『史跡相模国分寺跡整備予想図』。


12)海老名市『中門跡・南面廊跡』説明板

中門跡・南面廊跡は、昭和四十一年(1966年)と平成五年(1993年)に発掘調査が行われました。中門の基壇土は、耕作などで削り取られてほとんど残っていませんでしたが、南面廊との関係から正面20.7メートル(69尺)、側面10.8メートル(36尺)の基壇であったと推定されています。

南面廊の西側もすでに遺構面が削られて残っていませんでしたが、東側の調査した範囲では十個の礎石が旧位置に残っていました。この礎石から南面廊は梁行柱間が5.4メートル(18尺)、桁行柱間が3.0メートル(10尺)の等間隔になります。また、礎石の上に残る柱の焼失痕から直径約30センチメートル(1尺)の柱であったと推定されています。

発見された廊跡の礎石は、遺構保護のため埋め戻し、同じ位置に河原石を使って再現しました。中門の基壇は、推定範囲を表示してあります。


13)中門跡・南面廊跡。


14)反対方向から、中門跡・南面廊跡。


15)七重の塔跡。


海老名市『塔跡』説明板

ここは天平十三年(741年)の「国分寺建立の詔」をうけて建てられた七重塔の跡です。国分寺の塔には、国家の平安を祈る金光明最勝王経が安置されていました。

昭和四十一年(1966年)と平成四年(1992年)に行った発掘調査で基壇(建物の基礎となる土壇)は、一辺の長さが20.4メートル、高さは1.3メートルの規模であったことが確認され、残存する礎石から塔の初重の広さは、10.8メートル四方であったと推定されています。

塔跡のまわりからは屋根瓦(布目瓦)や水煙等の遺物が出土しています。

また、基檀周辺で発掘された石敷や盛り土から二回の修理もしくは建て替えが行われたことも分かりました。

創建時の基壇は、現在復原されているように、四辺ともに切り石積み(壇正積)でしたが、後に北側の辺だけが川原石積み(乱石積)につくり替えられています。

石質調査の結果、切り石は相模川上流から、礎石は丹沢方面から運ばれたものと推定され、両方とも凝灰岩質の石です。

十個の礎石は当時のままですが、失われた礎石は国分寺跡から運び出されたといわれる礎石三個と新たな石四個を使って復原・補充しました。

基壇の高さは、基壇周辺の遺構を保護するために盛り土したので、創建時の基壇よりも約35センチメートル低く復原しました。


16)復原された基壇。


17)塔の礎石。


18)金堂跡。


19)金堂の礎石。


20)道を隔てた北側に僧坊跡があります。


21)海老名市『僧坊跡』説明板

僧坊は、国分寺の僧が住んでいた建物です。国分寺建立の詔では、僧は二十名が定員とされていました。

国分寺建立の詔の後も、塔・金堂・僧坊の早期完成が求められていることから、僧坊が塔や金堂と並ぶ重要な施設であったことが分かります。

僧坊跡は、昭和四十一年(1966年)の発掘調査で初めて見つかり、平成八年(1996年)の発掘調査により全体的な建物形状などが確認されました。また、西側半分桁行側で約81メートル(25間分)、八部屋分が確認されました。

当初は掘立柱式建物でしたが、火災で焼けるなどし、礎石建物に建て替えられたことが分かりました。

一部屋は、桁行が約9.0メートル(30尺)、梁行が6.57メートル(22尺)で、部屋の内部に浅い柱穴があり、束柱か間仕切りがあったと推定されます。

柱穴は、直径1.2~1.5メートルの隅丸方形で、深さは0.8~1.2メートル、柱を抜き取った痕跡から直径約30センチメートルの柱が建っていたと推定されます。柱穴の底には、柱の沈下を防ぐために石や瓦を敷いたものがありました。

遺構は、地下に埋め戻して保存し、壁があった位置を縦線または横線で、柱があった位置を円で表示しています。


22)僧坊跡。


23)舗装した地面に、僧坊の柱と壁の位置が示されています。


24)国分寺跡から県道407号線へ出て、北へ進みます。


25)相模国分尼寺跡に建つ庚申堂。


26)海老名市教育委員会『相模国分尼寺跡(金堂跡)』の説明板。

この寺院跡は、相模国分寺跡の北方約600メートルに位置しています。近年、寺域内の発掘調査が数次にわたって実施され、この金堂跡のほか、講堂跡と鐘楼跡の基壇の一部が確認されました。その結果、中門・金堂・講堂が南北に並び、講堂の両脇に経蔵と鐘楼がつく伽藍配置をとること、規模は相模国分寺より一回り小さいことがわかりました。また、金堂跡の確認調査では、基壇上から桁行五間、梁行四間の大規模な礎石建物跡が検出されました。


27)庚申堂前の供養塔。


28)相模国分尼寺跡に生える松の木。


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