相模国三之宮(撮影:2008年3月25日)


1)相模国三之宮は、神奈川県伊勢原市三ノ宮の比々多(ひびた)神社です。


2)右側の狛犬。


3)左側の狛犬。


4)入口の掲示板。


●比々多神社『御由緒』

比々多神社の歴史は大変に古く、神社境内地・近隣より発掘出土した遺跡遺物などから推測すると、当社の淵源は今から約一万年以上前まで遡れる。論より証拠、発掘された縄文時代中期の環状配石中の「立石」こそ祭祀遺跡であり御神体であり、原初的な神社の信仰、古くからの聖地信仰の指標を現している。

社伝記(天保五年・1834年)によると、御鎮座は初代神武天皇六年、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最上の地と選定、神を祀る社を建立し、相模国の霊峰大山を神体山とし、豊国主尊を日本国霊として祀ったことに始まるという。

第十代崇神天皇七年、神地「神戸」を奉られ、第三十六代孝徳天皇の大化元年(645年)、現在相殿に祀られている大酒解神・小酒解神の二神が合祀されるに伴い、「うずら瓶」と称される須恵器が奉納されたという。次いで、第四十一代持統天皇の朱鳥六年(692年)、相模国の国司、布施朝臣色布知によって社殿の改修が行われ、一対の木彫り狛犬が奉納された。尚、このうずら瓶と狛犬一対は、共に、『新編相模風土記稿』に紹介されており、現在は、県重用文化財・市重要文化財に指定されている。

天平十五年(743年)、竹内宿祢の裔孫、紀朝臣益麿を比々多神社初代宮司に迎え、同時に第四十五代聖武天皇より荘園を賜る。第五十三代淳和天皇の天長九年(832年)、国司、橘朝臣峯嗣を勅使として当国総社「冠大明神」の神号を天皇より賜る。

この神号は、『吾妻鑑』建久三年(1192年)八月九日条にも見える。即ち、征夷大将軍源頼朝公が妻政子の実朝出産に際し、その安産祈願のため相模国の社寺に神馬を奉納したという記事の中に、当社が「三宮冠大明神」の名を以て列記されているのである。

第六十代醍醐天皇の御代、延喜年間に全国の主要神社の名簿『延喜式神名帳』が作られるにあたり、当社も登載され、以後、延喜式内社として国幣を奉る神社となる。

当国を本拠として天下の覇業を大成した源頼朝公は、元暦元年(1184年)、大規模な社殿再建を行い、社殿回廊など甍を並べて聳え、文治元年(1185年)、国土泰平祈願のための御願書を奉る。

南北朝、室町時代になると戦禍によって神領の大部分を失い、また、明応年間(1492~1501年)に、社殿を兵火によって焼失し、天正のはじめ、社地を埒面から現在の地(旧神主屋敷)に移転遷座する。

天正十九年(1591年)、当社が相模国の名社であることを知った徳川家康公によって社領十石が寄進されるに及び、ようやく社頭の復興をみるに至った。以後秀忠公・家光公以下十二代の将軍から神領の寄進がなされ、明治維新に至る。

明治六年(1873年)、社格を二大区六小区の郷社と定められ、十六ヶ村の総鎮守となる。明治四十一年(1908年)、神饌幣帛供進神社に指定される。

現在、献幣使参向指定神社に定められ、事始めの大神さまとして、近隣は基より広く関東一円の人々より篤く崇敬されるに至っている。


5)拝殿。

比々多神社は、六柱の神を祀ります。

豊国主尊(とよくにぬしのみこと)は、豊斟野尊(とよくむぬのみこと)とも呼ばれ、国土創造の神です。大地・開発・発明・創造力・厄除・交通安全に関する神徳があります。

天明玉命(あめのあかるたまのみこと)は、玉造の神です。不思議な霊力発揮・子宝に関する神徳があります。

雅日女尊(わかひるめのみこと)は、機織りの神です。衣料に関する神徳があります。

日本武尊(やまとたけるのみこと)は、叡智と武勇の神です。出世・開運・厄除・商売繁昌・交通・縁結びに関する神徳があります。

大酒解神(おおさかとけのかみ)は、大山祇神(おおやまつみのかみ)とも呼ばれます。小酒解神(こさかとけのかみ)は、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)とも呼ばれます。いずれも酒造りの神です。酒類業・山火鎮護・縁結び・子授安全に関する神徳があります。


6)拝殿脇の絵馬と灯篭。その右は、干支のネズミです。


7)拝殿。右に酒樽が見えます。


8)拝殿と本殿。


9)本殿裏の境内に、古墳の石室が移設・復元されています。

神社周辺の三ノ宮地域には、昭和初年360基を越える古墳があったといわれます。


10)『三之宮三号墳』説明板

東名高速道路建設によって発掘調査され、後方左側にある敷石住居および環状列石(ストーンサークル)とともに移設・復元されたものです。この積石により当時の知恵と努力がしのばれます。


11)古墳の石室。


12)環状列石。


13)神社の隣は、恵泉女学園です。中央の電柱の後ろに、埒免古墳が見えます。


14)伊勢原市教育委員会『埒免(らちめん)古墳』説明板

埒免古墳は昭和三十九年に建物の建設中に発見されました。その際、石室内から飾り大刀や鏡、金を貼った馬具など見事な副葬品が出土しました。それらはまさに、相模の最高権力者にふさわしい内容を備えており、伊勢原市の重要文化財に指定されています。これらは現在、三之宮比々多神社の郷土博物館で目にすることができます。

江戸時代の末に編さんされた『新編相模国風土記稿』によると、この地は、戦国時代以前の三之宮比々多神社があった場所であり、「埒免」と呼ばれていたと記されています。このことから、この古墳も埒免古墳と呼ばれることになったと考えられます。

その後、平成十二年からの建物の立て替えに伴う発掘調査や平成十四年の石室の再調査などで、墳丘・石室の規模・構造が明らかになり、当地域における埒免古墳の存在は古墳時代後期の相模を知る上で、ますます重要性が高くなってきています。


15)古墳は恵泉女学園の柵の中で、立入禁止です。


16)伊勢原市教育委員会『埒免古墳の横穴式石室』説明板

平成十四年二月に伊勢原市教育委員会は、東海大学考古学研究室の協力を得て、この石室の再調査を実施しました。その結果、石室は南東側に入口をもつ横穴式石室と呼ばれる構造で、遺体を収める部屋(玄室)は北東側に張り出した片袖式という形態であることが分かりました。

石室は、幅2メートル、長さ4.8メートルの玄室とそれに続く幅1メートル、長さ4メートル程の入口部分(羨道)からなります。石室は巨大な石を組み上げて造られており、玄室の正面奥に使われている最大の石は、縦・横2メートルを越す大きさです。

現在の石室は半分以上が埋め戻されていますが、本来は周囲の石積みの上に巨大な天井石がのり、内部でも1.7~1.8メートルの高さがあったと考えられます。

また、これより以前の建物の建て替え時の調査では、石室を覆うマウンドの周囲に巡る大きな溝の跡が見つかっています。それによると埒免古墳の墳丘の大きさは直径40メートルとなり、石室とともに古墳時代後期としては地域最大の規模となります。

さらに、当古墳の出土資料の内容は、銀装の太刀、金を貼った鞍や轡(くつわ)などの馬具、銅製の鏡といずれも貴重なものばかりです。相模地域の中でこの内容に匹敵する副葬品をもつ古墳といえば、南側に見える尾根上に位置する登尾山(とおのやま)古墳以外には見当たりません。


17)比々多神社をあとに北へ進み、松山古墳と心敬塚古墳へ向かいます。


18)松山古墳。

松山古墳は、伊勢原市三ノ宮に所在する未発掘の円墳です。五世紀以前の築造と推定されています。


19)松山古墳から道路へ戻ります。


20)心敬塚古墳。松山古墳の下の道路から望みます。

心敬塚古墳は、伊勢原市三ノ宮に所在する未発掘の円墳です。古墳時代後期の築造と推定されています。応仁の乱で京都を追われた連歌師心敬が当地で暮らし、ここに葬られたとされます。


21)心敬塚古墳の前の道路と配水池の柵。


22)心敬塚古墳の前から松山古墳を望みます。


23)石倉橋交差点へ向かう手前、『大山阿夫利神社』の案内板がありました。


24)ここから相模国の霊峰大山を望みます。頂上に、ちょうど雲がかかってきました。


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