相模国四之宮(撮影:2008年4月1日)


1)相模国四之宮は、神奈川県平塚市四之宮の前鳥(さきとり)神社です。


2)右側の狛犬。


3)左側の狛犬。こどもの狛犬を連れています。


4)平塚八景『森の前鳥神社』説明板。


●前鳥神社『御由緒』

神社名の「さきとり」は平安以前の古い地名で、相模川河原に接する自然堤防南端の地形名から起こったと言われています。奈良時代の天平七年(735年)の『相模國封戸租交易帳』には「大住郡埼取郷」として記載されています。

この「さきとり」の地に奈良時代以前、畿内から御祭神(菟道稚郎子命)を「氏の上」とする氏人が移り住み、遺徳を偲び、清浄な地にお祀りしたのが「さきとり」神社と考えられます。

延喜年間(901~923年)に編纂された『延喜式』という法制書の中で全国の著名な神社が収録されている神名帳に、当神社は「前鳥神社」と記され、相模国の十三座のひとつとして登載されています。

鎌倉時代には幕府の崇敬を受け、建久三年(1192年)八月、源頼朝公夫人政子の安産祈願にあたり神馬の奉献があり、建暦二年(1212年)に幕府は当社を将軍家祈祷所と定めました。

近世に入ると、関東八カ国の領主となった徳川家康公は天正十九年(1591年)十一月、当社に武運長久祈願のために朱印地十石を寄進、あわせて社地二千百余坪を除地として加護しました。

当神社は、この地に鎮座して以来、連綿と祭祀を続けてきました。時代が近世初期になってからは、寺社領の確定により、古義真言宗雪霜山鏡智院神光寺が別当寺として祭事のすべてを掌っておりました。そして、明治維新の大改革の際に鏡智院家が復飾、名を神代にあらため、現在に至るまで神仕(かみつかえ)の職に就いています。


5)拝殿。

前鳥神社は三柱の神を祀ります。

菟道稚郎子命(うぢのわきいらつこのみこと)は、修学・学問の神です。我が国で初めて中国からの典籍を学んだとされます。

大山咋命(おおやまくいのみこと)は、活動と福禄の神です。明治期に村内の日枝神社が合祀されました。

日本武尊 (やまとたけるのみこと)は、火難除けと安全守護の神です。東征の折り、当地で身を憩ったとされます。


6)拝殿背後の本殿。


7)おみくじ。


8)『三社まいり』の案内板。


9)神戸神社。

神戸神社(ごうどじんじゃ)は、天照大御神をお祀りする神明社、須佐之男命をお祀りする八坂神社の二社をお祀りする神社です。


10)奨学神社。

奨学神社は、百済の王子阿直岐と博士王仁、そして菅原道真公を御祭神とする奨学の神社です。


11)前鳥神社から、神奈川県道44号線の湘南銀河大橋へ出ます。


12)湘南銀河大橋から、相模川の上流方向を望む。相模国府付近の景観を偲びます。


●平塚市『相模国府を探る』

古代の律令国家(奈良・平安時代)は、地方を統治するために国・郡に分け、国府・郡衙を置きました。平塚市は古代の相模国大住郡に当たります。

さて、相模国府の所在地はどこにあったのでしょうか。文献では十二世紀中頃までは大住に、以後は余綾に移転したことが明らかにされています。しかし、考古学的には未だに「国庁」(国衙の中心施設)は発見されていませんので、多くの見解が発表されてきました。

近年までの主流の考え方が、海老名市にある国分寺の関係から海老名市→平塚市→大磯町と三遷した説です。一方、小田原の千代廃寺の関係から小田原市→平塚市→大磯町の説もあります。

大住国府が平塚以外に所在したとする説も幾つかありましたが、昭和五十九年の四之宮下郷遺跡群の調査成果によりほぼ確定されるようになりました。

同様に、初期国府に関しても新たな資料が平塚で発見されました。「国厨」の墨書土器は少なくとも大住国府が奈良時代後半まで遡ることができるものですので、新たに平塚市→大磯町の見解が再浮上してきました。


13)湘南銀河大橋から、相模川の堤を望む。左奥に前鳥神社。


14)湘南銀河大橋から、大山を望む。前景は前鳥神社の森と幼稚園。


15)湘南銀河大橋から、富士山を望む。


16)湘南銀河大橋から、高麗山を望む。国府は山の向こうへ移転したとされます。


17)西に進み、県道44号線の大野小北歩道橋から、湘南銀河大橋を振り返る。


18)県道44号線は、国道129号線と交差します。


●平塚市『四之宮下郷遺跡群』

この遺跡は四之宮諏訪前から大神遠倉までの129号線拡幅道路工事に伴う調査で、砂州・砂丘を南北に縦断する長さ3000メートルにも及び、高林寺遺跡・六ノ域遺跡・諏訪前A遺跡等十数カ所の遺跡を総称した遺跡群です。

遺跡は、砂州・砂丘、砂丘間凹地や自然堤防に立地しており、古墳時代から江戸時代までの遺構が1553基発見され、遺物も縄文時代から現代までのものが出土しています。細かく見ていくと、時代ごとに土地利用の変化を読みとることができます。

この遺跡の成果は、古代の土師器・須恵器・灰釉陶器・緑釉陶器の豊富な土器から、土器編年が中原上宿遺跡に次いで体系化され、平塚市の土器編年が確立したことです。また、周辺の市町村や県の土器編年にも大きな影響を与えたことです。

最大の成果は相模国府研究の出発点となる重要な資料が次々に発見され、『和名抄』(十世紀前半に成立)に記載された「府大住」(相模国府が大住郡に所在)は四之宮周辺(高林寺遺跡・六ノ域遺跡・諏訪前A遺跡)説を旗揚げしたことです。以後、追認する資料が豊富に出土し、「府大住」四之宮周辺説は一般的に認められるようになりました。


19)国道129号線を南に進んで、高林寺入口交差点へ出ます。


20)南側より、国道129号線の高林寺入口交差点。


21)交差点の南西に、説明板が建っています。


22)平塚市教育委員会『市指定重用文化財「国厨」墨書土器他』説明板

ここ稲荷前A遺跡は平塚市四之宮から東八幡の砂州・砂丘域に立地する埋蔵文化財包蔵地として周知されています。本資料が出土した第一地点は、店舗建設に伴って平成元年四月に発掘調査されました。

資料は、奈良時代後半の所産と見られる一号竪穴住居址から出土し、住居の成り立ちから廃絶後までの様相を示す一括資料です。土師器(はじき)、須恵器(すえき)、灰釉陶器(かいゆうとうき)、黒色土器(こくしょくどき)、瓦、鉄製品、石が含まれます。なかでも土師器と須恵器に「国厨(こくちゅう)」と墨書されたものを複数含む点が注目されます。

「厨」を記した土器は、官衙(かんが)内の諸施設に対する食膳の準備、食料の調達・管理等を担当する厨(くりや)・厨家(ちゅうけ)の備品であることを示したものと考えられます。つまり「国厨」墨書土器の出土は、周辺に厨家が存在したこと、ひいては厨家を含む官衙施設が存在したことを裏付けるもので、そこに国府があったという根拠となり得るものです。

奈良時代において、相模国の国府が四之宮周辺に置かれていたという学説を裏付けることとなったこの墨書土器は、平塚の古代史には欠くことができない資料であるとともに、全国的にも古代地方官衙研究に寄与する貴重な資料の一つです。


23)交差点から高林寺。入口まで行ったのですが、扉が閉まっていました。


24)高林寺から北西へワープして、真土小学校前の通り。


25)桜並木の内側は、真土大塚山公園です。


26)平塚市『真土大塚山古墳』説明板

●真土大塚山古墳(しんどおおつかやまこふん)

平塚市真土字十四ノ域にありましたが、現在は消滅しています。

この古墳は古墳時代前期(四世紀)に造られたもので、相模川西岸に生成された砂丘列の最高所(標高十九メートル)に立地していました。墳形は円墳、前方後円墳、前方後方墳ともいわれますが定かでなく、また墳丘の規模も明らかではありません。

埋葬施設には生前被葬者が所有したと思われる様々な品物が副葬され、被葬者の権威を象徴する三角縁四神二獣鏡・変形四獣鏡のほか、飾り金具に用いられた巴形銅器や装身具である玉類(勾玉・丸玉・管玉・ガラス玉)、道具や武器に用いられた鉄斧・鑓鉋・銅鏃・鉄剣・鉄刀などが出土しました。

この古墳は、相模国の前身であるサガムの国を支配していた豪族の墓と考えられ、土地の名称から真土大塚山古墳と名づけられました。現在、相模国の中では最も古い古墳と考えられています。

古墳はこの公園のすぐ南にありましたが、今日の景観からはその面影を偲ぶよすがはありません。このため公園を造るにあたっては、古墳が立地していた地形をモデルにし、真土地区の原風景を再現することにいたしました。

●三角縁四神二獣鏡(さんかくぶちししんにじゅうきょう)

三角縁四神二獣鏡は、縁の断面が三角形になっていて、主文様に四人の神像と二頭の獣像が施される鏡のことで、中国からの舶来品といわれています。

真土大塚山古墳から出土したこの鏡は、直径が約二十二センチで、「陳是作鏡甚大好、上有王父母、左有倉竜右白虎、宜遠道相保」の文字が刻まれていました。これらの文字は、平塚の地にもたらされた最初の文字と考えられます。

この鏡と同じ鋳型でつくった鏡は、京都府椿井大塚山墳、岡山県備前東塚古墳、兵庫県権現山五十一号古墳からも出土しています。なかでも椿井大塚山古墳は、大和朝廷の中枢に近い人物の墓とみられ、三十二面もの同種の鏡が出土しています。こうしたことから真土大塚山古墳の被葬者は、この地方一円を支配する一方で、大和朝廷と特に深い関係のあった大豪族であろうと考えられます。

なおこの鏡は、現在東京国立博物館にて保管されています。

●タイムカプセル

真土大塚山古墳の再現を記念して、真土小学校・真土地区連合自治会・工事請負業者・平塚市において、タイムカプセルを古墳山頂の方位盤下に埋蔵し三十年後に開封することとしております。


27)再現された真土大塚山古墳。


28)再現古墳の頂上。


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