三殿台遺跡(撮影:2008年4月15日)


1)横浜市磯子区の岡村小学校前。


2)小学校の手前に『三殿台遺跡入口』の標柱と案内板があります。


3)かなりの急坂を登ります。


4)やっと門が見えました。道路右側の草地は貝塚です。


5)『横浜市三殿台遺跡』の表札。


6)内側から門の方向を振り返ります。

三殿台(さんとのだい)遺跡は磯子区岡村にあって、縄文・弥生・古墳時代の三代にわたるムラの跡です。遺跡は、標高五十五メートルほどの小高い丘の、約一万平方メートルの広さがある平坦な場所に作られています。丘の周りの斜面には数ヵ所の貝塚が点在し、明治三十年代には「屏風ケ浦岡村貝塚」の名称で紹介され、注目されるようになりました。その後、隣接する市立岡村小学校の校地拡張予定地となったため、昭和三十六年(1961年)夏、多くの研究者や中・高・大学生、市民ら延べ五千人が参加して、遺跡全体の発掘調査が行われました。

調査の結果、 縄文時代から古墳時代にわたる約二百五十軒もの竪穴住居跡が見つかりました。特に弥生時代の住居は百七十軒近くあり、当時のムラ跡としては大変貴重なものであることがわかりました。そのため、大岡川流域の原始・古代のムラの様子と当時の生活を知ることができる貴重な遺跡であるとして、昭和三十八年(1963年)に永久保存することが決まりました。昭和四十一年(1966年)に国の指定史跡となり、翌昭和四十二年(1967年)に三殿台考古館が開館して、遺跡とともに公開されています。


7)三軒の竪穴住居が復元されています。左は縄文時代、右は古墳時代です。


8)これは、弥生時代です。


9)竪穴住居跡保護棟。


10)遺構を示す標石。


11)『竪穴住居(縄文時代中期・紀元前三千年頃)』の説明板。


12)縄文時代中期(加曾利E式期)の復元住居。

自然界に食料を求めて暮らした縄文時代の人々は、こうした日当りの良い丘の上に数軒で構成されるムラを作りました。

この住居は、長い縄文時代の中でも、特に生活条件の良かった時期のもので、こうしたムラの跡は、横浜でも数多く発見されています。家の平面は丸みのある五角形や六角形、または円形に近いものが多く、床の中央に土器を埋めたり川原石で囲んだ炉があり、家の外形は、一般には円錐形と考えられています。


13)『竪穴住居(弥生時代中期・紀元一世紀頃)』の説明板。


14)弥生時代中期(宮ノ台式期)の復元住居。

紀元前四世紀頃に大陸から伝えられた稲作の技術は、食料のすべてを自然界に求めた縄文時代から、農耕生産を基礎とした弥生時代の村落社会を生み出しました。

この家屋は、三殿台遺跡で発掘された弥生時代のものでは最も古く、楕円形の平面を示し、床の北側に炉が掘られていました。四本の主柱に支えられた入母屋造りです。


15)『竪穴住居(古墳時代後期・紀元七世紀頃)』の説明板。


16)古墳時代後期(鬼高式期)の復元住居。

この地方が大和を中心とする古代国家の支配下にはいった大化改新頃になっても、農民たちは弥生時代と大差ない竪穴住居に住んでいました。

この住居も四本の支柱で支えられた入母屋造りですが、住居の平面は方形になり、北側屋内にカマドが築かれ、米が主食として普及したことを物語っています。


17)横浜市三殿台考古館。入場無料です。


18)弥生土器。


19)土師器。

土師器(はじき)は、弥生土器の流れをくむ素焼きの土器で、古墳時代から平安時代まで使われました。その用途により様々な器形がみられます。市内では、須恵器が出現しても、長く使用されていました。色は淡い褐色で、その多くは文様がありません。


20)須恵器。

須恵器(すえき)は、古墳時代の後半期になって出現します。土師器のように弥生土器の系統をひくものではなく、外来の技術によって生産され始めたものです。一般的に灰色などの色調です。窯で焼き、比較的硬い土器です。


21)勾玉。


22)水晶の切子玉。


23)装身具の説明図。


24)石鏃。


25)石鏃の説明図。


26)三殿台遺跡の門の前から、みなとみらい方面を望む。


27)岡村小学校の前の道を南に下ります。


28)岡村天満宮から岡村小学校を望む。三殿台遺跡はやや左になります。


◇BACK:神奈川県の古代遺跡【グレゴリウス写真館の目次】

◇HOME:グレゴリウス写真館