浄光明寺の境内(撮影:2008年10月7日)


1)浄光明寺は、鎌倉市扇ヶ谷にある、真言宗泉涌寺派の寺院です。


2)建長三年(1251年)の創建。境内は、2007年に国の史跡に指定されました。


3)鎌倉市『浄光明寺』案内板

鎌倉幕府六代執権・北条長時が、開山に真阿を迎えて建立しました。北条氏の帰依が篤く、また、鎌倉公方(鎌倉府の長)の保護も受けました。

本尊の阿弥陀三尊像(国重文)は宋(現在の中国)の影響を受けた美しい造形です。中央の阿弥陀如来像の衣の装飾には、「土紋」といわれる鎌倉地方特有の技法が使われています。

裏山には歌人藤原定家の孫で、歌道の名門冷泉家の始祖為相の墓があります。母の阿仏尼は、京から鎌倉への紀行文『十六夜日記』の作者です。


4)客殿と庫裡。


5)庫裡の前の桶置場。


6)客殿の屋根の獅子瓦。


7)側面の崖。境内は、谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観が保存されています。


8)浄光明寺『楊貴妃観音像の由来』案内板

楊貴妃は、中国唐の時代の玄宗皇帝の妃でした。楊貴妃は玄宗の寵愛を一身に受け、人々の羨望を集めていましたが、安史の乱が起きると殺害され、三十八才の若さでこの世を去ることとなってしまいました。楊貴妃の死を嘆いた玄宗は、仏師に命じて楊貴妃の美貌に似せた一体の観音像を彫らせ、亡き妃を偲んだと伝えられます。

それから五百年後、中国に渡った日本の留学僧湛海律師はこの観音像を譲り受け、帰国後これを京都東山の泉涌寺に安置しました。以来、この像は泉涌寺楊貴妃観音像と呼ばれ、人々の信仰を集めています。

平成十四年、全国各地に石仏の寄進を続ける近藤清一氏は泉涌寺楊貴妃観音像に魅せられ、この模刻を発願すると、当代一の石造彫刻家である長岡和慶仏師に彫刻を依頼しました。平成十六年、完成した石仏は泉涌寺の末寺である浄光明寺に寄進され、開眼供養が行われました。


9)楊貴妃観音像。


10)客殿の花頭窓と、十三重石塔と、不動堂。


11)不動堂。


12)十三重石塔。


13)十三重石塔の基部。


14)勢至菩薩像。


15)客殿の脇を通って阿弥陀堂へ至る道。


16)阿弥陀堂。


17)阿弥陀堂の花頭窓。


18)阿弥陀堂の前から、山門を望む。


●文化庁『浄光明寺境内・冷泉為相墓』解説文

冷泉為相墓は、中世鎌倉歌壇を隆盛に導いた歌道の由緒の地である。浄光明寺境内は、絵図史料に描かれた鎌倉時代の境内の景観を良くとどめる、北条氏・足利氏所縁の寺院である。よって浄光明寺境内を、冷泉為相墓に追加指定し、名称を冷泉為相墓から浄光明寺境内・冷泉為相墓に変更し、保護を図ろうとするものである。

冷泉為相墓は、神奈川県の南東部に位置し、鶴岡八幡宮境内西側の扇ガ谷の支谷、泉ヶ谷の浄光明寺境内に所在する。昭和二年に浄光明寺境内の阿弥陀堂裏山平場の石塔を冷泉為相墓として史跡指定した。石塔は南北朝時代の様式を良く示す宝篋印塔である。冷泉為相は、所領等をめぐる相論のためにしばしば鎌倉に下向した。この間に執権北条貞時や将軍久明親王主催の歌会にたびたび出席し、武士達に和歌連歌を教授し、鎌倉歌壇を隆盛に導いた。浄光明寺境内北側の藤ガ谷に住し、藤谷殿、藤谷黄門とも呼ばれた。「御子左家系図」では嘉暦三年(1328年)に鎌倉で、「常楽記」では京都で薨じたとあり、のちに最大の支援者であった北条氏所縁の浄光明寺境内の一角に墓所が営まれ、今日まで同寺によって手厚く維持されてきた。

浄光明寺は、古義真言宗泉涌寺派の寺院で、亀ヶ谷坂、仮粧坂を押さえる泉ヶ谷の入り口部に位置する。建長三年(1252年)、北条時頼・長時の発願により真聖国師真阿を開山として創建された。開基は六代執権の北条長時で、重時流北条氏の菩提寺である。はじめは念仏持戒の寺であったが、後に浄土・華厳・真言・律・天台・禅の兼学道場となり、中世鎌倉における仏教教学の中心の一つとなった。

足利尊氏の正室登子が(重時流)赤橋守時の妹に当たることから、足利氏との関係も深く、建武新政の際には成良親王の祈願所となり、足利尊氏・直義の帰依を受け、寺域安堵・寺領寄進された。室町時代には鎌倉公方の保護を受け、足利基氏・氏満の分骨を祀り、直義の位牌を伝える足利氏の菩提寺の一つとなった。

追加指定の根拠は、元弘三年(1333年)五月から建武二年(1335年)十二月までの間に制作された「浄光明寺敷地絵図」(『浄光明寺敷地絵図の研究』)である。同絵図は貞享二年(1685年)の『新編鎌倉志』等に記載されており、古くから知られていた。永らく行方不明になっていたが、平成十二年に浄光明寺に返還された。絵図には、谷戸を雛壇状に造成した様子、築地に囲まれた境内地に本堂・僧堂・庫院・慈光院・地蔵院・延寿堂・経塚・池等が描かれている。築地の外側には新たに寄進された執権赤橋守時や土佐守等の邸宅が、守時邸跡の東隣には寄進から除かれた、得宗館跡と推定される「御中跡」が描かれている。敷地の境界を示す朱線の上に足利家執事の上杉重能の花押が据えられている。寺院境内の状況だけでなく、鎌倉時代の武士の屋敷の位置や所有者、町中や谷戸の利用状況を知ることができる貴重な史料である。

昭和六十二年に文化財収蔵庫建設に伴い阿弥陀堂平場を発掘調査し、東を正面とする桁行四間、梁行三間半で縁が付く、東西8.4メートル、南北9.2メートルの住宅風の礎石建物跡を検出した。絵図に描かれた慈光院西地区の御堂に比定される。平成十三年には鎮守社建替えに伴い、絵図に描かれた経塚部分を発掘調査し、径約1.2メートルの岩盤掘り込みで、常滑大甕埋設の経塚遺構を検出した。発掘調査によって検出された遺構は、いずれも保護盛土し、建物位置を変更して保存している。

現在の境内地は、谷戸平坦地に主要伽藍を配置し、谷戸奥を人工的に切り開いた、創建当時の形態を良く保持している。絵図の東側と北側の境界は、現在の筆境、地割に継承されている。西側は横須賀線敷設により、境界道路の南西隅が若干東側に振れている。門前の道から南側は、地形の改変、分筆が著しく、絵図の境界を復元することが困難である。門前の道路敷を南限とする範囲は、東西約233メートル、南北約155メートルである。

注記:原文の最終段落を文頭に移動しました。


19)帰路。扇川に沿って、鎌倉駅方面へ下ります。


20)JR横須賀線の寿福寺踏切。


21)JR横須賀線の扇ヶ谷踏切から、鎌倉駅を望む。


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