小田原城天守閣眺望(撮影:2008年12月15日)


小田原城天守閣

1)小田原城天守閣。


大山(小田原城天守閣より)

2)小田原城天守閣から、大山を望む。


小田原駅(小田原城天守閣より)

3)小田原城天守閣から、小田原駅を望む。


小田原市街・相模湾(小田原城天守閣より)

4)小田原城天守閣から、小田原市街・相模湾・三浦半島を望む。


真鶴半島(小田原城天守閣より)

5)小田原城天守閣から、真鶴半島を望む。


早川・石橋(小田原城天守閣より)

6)小田原城天守閣から、早川・石橋方面を望む。


石垣山一夜城方位(小田原城天守閣)

7)『石垣山一夜城』の方位案内板。


石垣山城祉(小田原城天守閣より)

8)小田原城天守閣から、石垣山城祉を望む。


箱根二子山(小田原城天守閣より)

9)小田原城天守閣から、箱根二子山を望む。


箱根駒ヶ岳(小田原城天守閣より)

10)小田原城天守閣から、箱根駒ヶ岳を望む。


八幡山古郭方位(小田原城天守閣)

11)『小田原城八幡山古郭』の方位案内板。


八幡山古郭(小田原城天守閣より)

12)小田原城天守閣から、八幡山古郭の頂部を望む。


八幡曲輪標柱(小田原城跡)

13)ここから、八幡山古郭について。

写真は、小田原市城山の「城山中入口」交差点にある『八幡曲輪』標柱です。交差点から西へ、小田原高校を目標に坂を登ります。


八幡山古郭説明板(小田原城跡)

14)小田原高校前の『小田原城跡・八幡山古郭』説明板

小田原城は、室町時代中ごろ(15世紀後半)、大森氏によって築かれたのが起源と考えられています。この頃の小田原城の位置は、八幡山付近と想定されています。

明応四年(1495年)、北条早雲(伊勢宗瑞)は伊豆を平定したのち、相模国(神奈川県)への進出をめざして大森氏を攻め小田原城を奪います。

北条氏は勢力の拡大とあわせて小田原城の規模を拡大していき、天正十八年(1590年)に豊臣秀吉が小田原城を囲んだときは、全周約九キロメートルもの総構が城下町を包みこむまでに発展していました。

八幡山と呼ばれるこの付近一帯は、初期の小田原城の中心であったと考えられている場所で、所々に土塁や空堀が残されています。

平成十四年(2002年)に県立小田原高等学校内で行われた発掘調査でも、城の虎口部分の障子堀(底に仕切りを残した形態の堀)や規模の大きな石組を持つ井戸跡が確認されています。


小峯の大堀切(小田原城跡)

15)小峯の大堀切。小田原高校よりさらに少し先にあります。


●『小峯の大堀切』説明板

小田原北条氏時代の小田原城は、全国でも稀に見る規模の大きな縄張りを持った城郭として知られている。

その構築法は、内城(本丸・二の丸・三の丸等)と城下町を囲んだ大外郭を設けて、城下町を戦禍から保護するとともに、城外に雄大な防禦線を張ろうとする構えであり、当時これは「総構」「総曲輪」と呼ばれ、また大外郭は土塁とその外堀とで作られているところから「総堀」ともいわれている。

小田原城総曲輪は、おそらく小田原北条氏三代氏康の永禄年間頃からつくり始められ、上杉謙信、武田信玄による再度の来攻の経験などにより次第に拡大され、五代氏直の時、豊臣秀吉の小田原の陣が始まる直前の天正十八年(1590年)早春に完成したものと思われる。

現在、ここに見られる空堀遺構は、小田原城中にある三丘陵即ち、谷津丘陵・八幡山丘陵・天神山丘陵の分岐点であり、小田原城にとって最も重要な場所と思われる。この空堀・土塁は小田原城の残存遺構の中で最大のものである。


北条早雲公銅像(小田原駅西口)

16)最後に、小田原駅西口にある『北条早雲公』の銅像です。


小田原城(石垣山農道より)

17)補遺:石垣山農道から、小田原城を望む(2008年11月19日撮影)。


前編「小田原城」もご参照ください。


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