朝夷奈切通(撮影:2009年1月26日)


十二所(神奈川県道204号線)

1)鎌倉市十二所、神奈川県道204号線(金沢街道)の「十二所神社」バス停付近。

鎌倉七口のひとつ、朝夷奈切通は、相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の境界に位置し、十二所から六浦に至ります。そこから、房総方面や常陸方面へ通じます。


朝比奈切通への路地(鎌倉市十二所)

2)「十二所神社」バス停から、県道204号線の東側の路地へ入ります。


朝夷奈切通入口の石塔群(鎌倉側)

3)道端の高い位置に、庚申塔などの石塔群があります。

近い時代に道が掘り下げられて、石塔群が高い位置に残されたとされます。


朝夷奈切通の道

4)切通の道らしくなってきました。


やぐら(朝夷奈切通)

5)崖の高い位置に、「やぐら」があります。


やぐら(朝夷奈切通)

6)こちらは、さらに奥の「やぐら」です。


滝と石碑(朝夷奈切通)

7)滝と石碑が見えてきました。


朝夷奈切通の石碑

8)鎌倉町青年団『朝夷奈切通』石碑

鎌倉七口の一にして、鎌倉より六浦へ通ずる要衝に当り、大切通・小切通の二つあり。

土俗に「朝夷奈三郎義秀、一夜の内に切抜たるをもって、その名あり」と伝へられるも、『東鑑』に、「仁治元年(1240年)十一月、鎌倉・六浦間道路開鑿(かいさく)の議定あり。翌二年(1241年)四月、経営の事始ありて、執権北条泰時、その所に監臨(かんりん)し、諸人群集し、おのおの土石を運びし」こと見ゆるにてらし、この切通はすなわち、当時において開通せしものと思料(しりょう)せらる。


朝夷奈切通の道

9)石碑の先の道。


朝夷奈切通の道

10)道の所々が、ぬかるんでいます。


地蔵菩薩像(朝夷奈切通)

11)道端の地蔵菩薩像。


朝夷奈切通の大切通

12)「大切通」のある峠に着きました。


朝夷奈切通の大切通

13)この峠が、鎌倉市(相模国)と横浜市(武蔵国)の境界になっています。


朝夷奈切通の大切通

14)横浜市側から、峠を振り返ります。


朝夷奈切通の道

15)横浜市側へ降ります。


朝夷奈切通の小切通

16)「小切通」です。左側が高い崖になっています。


朝夷奈切通の道

17)切通の道は、横浜横須賀道路の下を潜ります。


朝夷奈切通の入口(横浜側)

18)横浜市側の入口が見えてきました。


朝夷奈切通の入口(横浜側)

19)横浜市側の入口を振り返ります。


朝夷奈切通の石塔群(横浜側)

20)こちらの入口にも、鎌倉市側と同じような、庚申塔などの石塔群があります。


朝夷奈切通の説明板

21)横浜国際観光協会・横浜市教育委員会『国史跡、朝夷奈切通』説明板

鎌倉幕府は、仁治元年(1240年)六浦津との重要交通路として、路改修を議定、翌年四月から工事にかかりました。執権北条泰時自らが監督し、自分の乗馬に土石を運ばせて工事を急がせたといいます。

当時の六浦は、塩の産地であり、安房・上総・下総等の関東地方をはじめ、海外(宋)からの物資集散の港でした。舟で運ばれた各地の物資は、この切通を越えて鎌倉に入り、六浦港の政治的・経済的価値は倍増しました。

また、鎌倉防衛上必要な防禦施設として、路の左右に平場や切岸の跡とみられるものが残されています。

鎌倉市境の南側には、熊野神社がありますが、これは鎌倉の艮(鬼門)の守りとして祀られたと伝えられています。

鎌倉七口の中、最も高く嶮阻な路です。


朝夷奈切通への路地(横浜市金沢区朝比奈町)

22)神奈川県道23号線へ出る手前で、朝夷奈切通の入口を振り返ります。


朝比奈バス停(神奈川県道23号線)

23)県道23号線の「朝比奈」バス停付近。案内標識によれば、六浦まで2kmです。


六浦交差点(神奈川県道23号線)

24)京浜急行線のガードの先が、県道23号線の終点、「六浦」交差点です。


金沢八景駅前交差点(国道16号線)

25)「六浦」交差点を左折して国道16号線に入り、「金沢八景駅前」交差点へ出ます。


瀬戸神社(金沢八景)

26)金沢八景駅前の瀬戸神社。


枇杷島神社の参道(金沢八景)

27)瀬戸神社から平潟湾へ伸びる、枇杷島神社の参道。


平潟湾と野島(金沢八景)

28)平潟湾と野島。画面の左下は、枇杷島神社の社殿です。


●瀬戸神社『由緒』より

大昔、今日の泥亀町から釜利谷東一帯は大きな入江でした。この入江と平潟湾とは、今日の瀬戸橋の位置にあたる狭い水路状の海峡でつながっていました。そしてこの小さな海峡は、潮の干満の度に内海の海水が渦を巻いて出入りする「せと」でした。

古代の人は水流の険しい「せと」を罪穢れを流し去ってしまう神聖なところであるとして、豊な幸をもたらしてくれる神々をここに祭りました。これが瀬戸神社の起源です。神社の隣接地からはすでに古墳時代には祭りが行われていたことを証する祭祀遺物が出土しています。

鎌倉時代、幕府を開いた源頼朝は、伊豆での挙兵にあたって御利益を蒙った伊豆三島明神(三島大社)の分霊をこの「せと」の聖地に祭り、篤く信仰しました。社殿の造営もおこなわれ、今日のような神社の景観ができ上がったのは概ねこの頃のことです。

以後、金沢(六浦)の地は港町として発展し、鎌倉と関東一円を東京湾や利根川を水系利用して結ぶ水上物流の集散地となりましたから、執権北条氏、ことに金沢に居を構えた金沢北条氏、また足利氏や小田原北条氏の崇敬も篤いものがありました。

平潟湾に突き出たところ、弁天島に境内神社の琵琶嶋神社があります。この社は源頼朝の妻の政子が、近江(滋賀県)の竹生島弁財天を勧請したものですが、立姿の御神像と頼朝・政子が流人の身から征夷大将軍に立身出世したことに因み、立身弁財天と呼ばれます。


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