横浜公園(撮影:2009年12月2日)


1)横浜市中区、横浜公園の関内駅方面入口。


●横浜市『横浜公園』

この公園は、横浜の中では山手公園についで二番目に古い公園で、現在の市庁舎隣にあり、横浜という都市の発展と共に歩んできた公園といえます。

在留外国人の生活環境改善を求めた条約に基づき、遊郭の跡地に整備が行われ、明治九年に開園、一般の人々にも開放されたため当時は「彼我公園」といわれていました。

明治四十二年には、公園全域が横浜市の管轄となり、大震災と戦後の接収時代を経て、昭和二十七年の解除後は当時の平沼市長が命名した公園内の平和球場で高校、大学、ノンプロの野球試合が数多く行われました。

昭和五十三年に横浜スタジアムが建設されたのを機に、園内の老朽化した諸施設を改築、日本庭園風の池と流れ、噴水や多目的広場などが整備されました。

さらに昭和六十二年、水道の貯水設備と共に、水の出る四つの彫刻がある水の広場が整備され、現在の形になっています。

一年を通じ人気のある横浜公園ですが、見物は何といっても春のチューリップでしょう。公園を彩る色とりどりの花は16万球にのぼり、様々なタイプの品種を見ることができ、開花の時期には多くの人々で賑わいます。

公園内には横浜の公園でもめずらしい水琴窟が日本庭園部分にある「つくばい」の下にあります。地中に瓶を埋め、落下する水滴の音を反響させて楽しむ、庭園の技法でも高度なもので、その澄んだ音色は都会の喧噪を忘れさせてくれます。

備考:水の広場は工事中で撮影できませんでした。


2)公園の中から見た関内駅方面入口。


3)井上信道作『青春』の像。


4)横浜スタジアム。


5)横浜スタジアム。


6)横浜スタジアム。


7)横浜スタジアム。


8)横浜公園の日本大通り方面入口。


9)リチャード・ヘンリー・ブラントンの胸像。

明治元年(1868年)政府の招聘により来日した英国人土木技師ブラントンは、開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、八年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡をのこしました。


10)噴水。


11)日本庭園の紅葉。


12)紅葉のそばに、岩亀楼の石灯籠があります。


13)横浜市『岩亀楼の石灯籠』説明板

横浜公園一帯は江戸時代の末期までは入海で、安政三年(1856年)に埋立てられ太田屋新田といった。横浜開港にともない、新田の沼地約一万五千坪が更に埋立てられ、港崎町と命名され、その中に岩亀楼などが開業し国際社交場として栄えた。

港崎町一帯は慶応二年(1866年)の大火(通称豚屋火事)で焼失し、跡地は当時在留の外国人の要望で公園として再生することにきまり、明治九年(1876年)日本最初の洋式公園(横浜公園)が誕生した。

当初、彼我公園と俗称され、明治三十二年(1899年)神奈川県の所管から横浜市の管理に移り、市民に公開され今日に至った。

この灯籠は、妙音寺(南区三春台)から横浜市(横浜開港資料館)に寄贈されたもので、石に刻んである「岩亀楼」の文字から、岩亀楼にちなむものであることがわかる。

岩亀楼は、はじめ港崎町に建てられ、慶応二年の大火で類焼、以後二転三転して明治十六年(1883年)永楽町に移り、明治十七年に廃業した。

この灯籠は明治初年頃のものと思われるが、いつ妙音寺に移されたかは判明していない。震災、戦災によって多くの文明開化期の遺物を失った横浜にとっては貴重な文化財の一つといえよう。


14)岩亀楼の石灯籠。


15)『蹲踞と水琴窟』説明板

茶席へ入る前に手と口を清潔にするための場所を蹲踞(つくばい)と言います。蹲踞は、清水をためる手水鉢(ちょうずばち)・寒い季節には水で手を洗うと冷たくなるので、湯で洗うため、湯を入れた桶を置く湯桶石(ゆとういし)・暗くなった時のランプを置く手燭石(てしょくいし)・手を洗う時に乗る前石などで構成されます。

水琴窟(すいきんくつ)は、洗った水が地下へ排水される時に発生する音を楽しむ装置です。滝の音・松風の音とともに日本庭園における音を楽しむ最高の趣味となっています。


16)地下に水琴窟があるという蹲踞(つくばい)。


17)日本庭園の流れと橋。


18)日本庭園の池。


横浜公園は、大通り公園とペアで、かながわの公園50選の一つに選定されています。

写真122「大通り公園」もご参照ください。


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