大通り公園(撮影:2009年12月2日)


1)横浜市中区、JR関内駅前から大通り公園を望みます。公園の東端になります。


2)『大通り公園』案内板。


●神奈川県・かながわの公園50選『大通り公園』

この公園は吉田川を埋め立てて、地下に地下鉄、地上は緑の茂る公園にしたもの。延長は1.2キロメートル、幅は30~40メートル。

「石の広場」には巨大な門柱を思わせるモニュメントと階段状ステージが一体となっている。その前面広場にはかつて市電の軌道に使われた石が敷き詰められている。

その隣に「水の広場」があって、巨石を積んだ噴泉や壁泉、せせらぎや鳴門の渦潮を思わせる池もある。水の七変化を見るようだ。

続いては四季の花や木を植えた「みどりの森」がある。

園内にはヘンリー・ムーアやオーギュスト・ロダンをはじめ著名作家の作品が随所に置かれている。

大通り公園に始まって横浜公園、そして日本大通りの並木から山下公園へと市街地の中の「緑の軸線」が形成されている。

備考:階段状ステージなど一部の施設は撤去されたようです。


3)石の広場。


4)オーギュスト・ロダン作『瞑想』の像。


5)水の広場。


6)水の広場。


7)横浜市営地下鉄ブルーライン「伊勢佐木長者町」駅。


8)ヘンリー・ムーア作『三つの部分からなるオブジェ』の像。


9)伊勢佐木長者町駅付近から、関内駅方向を望みます。


10)岩野勇三作『笹と少年』の像。


11)地下鉄の連絡通路を通って、神奈川県道80号線を潜り、緑の森方面へ出ます。


12)連絡通路を出ると、石段があります。


13)オシップ・ザッキン作『働く女』の像。


14)緑の森。


15)石のベンチ。


16)公園の西端付近、緑の森の中に『平和祈念碑』があります。


17)『平和祈念碑』。


●横浜戦災遺族会『平和祈念碑由来之記』

1941年12月8日、日本軍の米国真珠湾軍港に対する奇襲攻撃により、大日本帝国は、連合軍との間に戦端を開くに至った。

その間、三年九ヶ月余。政・軍・官の情報統制の下、一般庶民は戦争の実相を知らされることなく、ひたすらに盲従を強いられた日々であった。戦線が次第に日本本土に近づくにつれ、米軍機による空爆は熾烈を極め、国内百数十の都市が軍事施設・民間施設の別なく攻撃を受け、非武装の一般民衆が多数犠牲となった。

横浜はこの間三十数回の空爆をうけた。特に1945年5月29日白昼、当時世界最大級の重爆撃機B29五百余機、随伴戦闘機P51百余機の連合軍機により、市内は絨毯爆撃を受けること一時間余。焼夷弾換算四十三万余発の投下により市内は焦熱地獄の様相を呈し、非武装の民衆に万余の犠牲者を生ぜしめた。

この地に戦火止みて既に四十数年の歳月が経過したが、残された遺族の心の傷は今なお癒えることはない。当時を知る遺族も、その多くは鬼籍に入り、犠牲者たちの恒久平和を希求する声なき声を伝うべきよすがとて失われようとしているこの時、遺族縁類相倚り相扶け、私財を投し、心ある市民の合力を得て、平和祈念碑建立を発願した。

祈念碑回廊中には犠牲者の姓名を彫刻し、そのアイデンタテイを復活せしめ、共に手をたずさえて平和のメッセージを伝え、全世界において我らが子々孫々に至るまで戦争の惨禍におびえることなく恒久平和を享受出来る世界の実現を願い、惻隠の情を意味する「愛」と、飢餓のない世を理想とする「平和」の文字を、我らのいのちを支える「地球」に配して象徴とした。

幸い、横浜市会代表の正・副議長殿の賛同を得、国会・県議会有志議員諸賢、神奈川県知事殿の賛意を得た。題字には、横浜市長高秀秀信殿のご揮毫になる「平和祈念碑」の彫刻を付し、横浜市からは施設設置許可を受けこの地に恒久平和実現の為の一里塚として、この碑を建立した。

除幕式には、国際連合駐日代表殿、広島市長殿、長崎市長殿、世界各地のピース・メッセンジャー都市首長殿から、多数の献辞が寄せられた。

この人類至高の祈りが、志ある人々により継承発展され、犠牲者も平和の使徒の先駆者として、至福の時を共に迎える日の近きことを信ずる。


18)横浜市営地下鉄ブルーライン「阪東橋」駅。公園の西端になります。


大通り公園は、横浜公園とペアで、かながわの公園50選の一つに選定されています。

写真121「横浜公園」もご参照ください。


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