鎌倉宮の土牢(撮影:2009年12月7日)


1)鎌倉市二階堂、鎌倉宮の大鳥居前から参道を望みます。


2)鎌倉宮の大鳥居。

鎌倉宮の鳥居は全国的にも大変珍しい「白地に赤」の配色がなされています。白は「純真無垢、純粋」、赤は「赤誠・赤心、まごごろ」の意味が込められています。


3)鎌倉市『鎌倉宮』説明板

後醍醐天皇の皇子である護良親王を祭神とする神社です。護良親王は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の動きに呼応して幕府軍と戦うなど、貢献しました。

幕府が滅亡し天皇親政が復活(建武の新政)すると征夷大将軍に任じられましたが、その後足利尊氏と対立して捕らえられ、二十八歳で非業の最期を遂げました。

社殿の後ろ手に残る土牢が親王最期の地と伝えられています。十月には境内で薪能が催されます。


4)鎌倉宮の拝殿。


5)拝殿前から、大鳥居を望みます。


6)拝殿横のおみくじ。


7)鎌倉宮の本殿。


●鎌倉宮『御由緒』

鎌倉宮は、大塔宮(おおとうのみや)護良親王(もりながしんのう)をお祀りする神社です。護良親王は延慶元年(1308年)に後醍醐天皇の皇子としてご誕生になりました。六歳の時に京都の三千院にお入りになりますが、十一歳で比叡山延暦寺に入室し、尊雲法親王(そんうんほっしんのう)と呼ばれました。また、大塔宮とも呼ばれました。二十歳にして天台座主となられます。

当時、鎌倉幕府の専横な政治に、父帝の後醍醐天皇は国家の荒廃を憂いられ、親王と共に元弘元年(1331年)六月、比叡山にて討幕の挙兵をする手筈でした。しかし、この計画は幕府に知るところとなり天皇は捕らえられ、隠岐に配流となります。

親王は還俗して、名を護良と改め、天皇の代わりとなって楠木正成らと、幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大群を吉野城や千早城に引きつけました。この間にも親王の討幕を促した令旨に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利高氏、赤松則村らが六波羅探題を落とし、また新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。後醍醐天皇は京都に還御され、親王はこの功により兵部卿・征夷大将軍となられます。

しかし高氏は征夷大将軍を欲し、諸国の武士へ自らが武家の棟梁であることを誇示した為、親王は高氏による幕府擁立を危惧し、兵を集めます。ところが、逆に高氏の奸策に遭い捕らえられ、鎌倉・東光寺の土牢(つちろう)に幽閉されます。建武元年(1334年)の十一月十五日の事です。

建武二年(1335年)七月二十三日、残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行の軍に破れた高氏の弟・足利直義は逃れる際に、家臣・淵辺義博(ふちべのよしひろ)へ親王暗殺を命じました。義博の凶刃に対して、親王は九ヶ月も幽閉された御身では戦う事も出きず、御年わずか二十八歳という若さでその苦闘の生涯を薨じられました。

明治二年(1869年)二月、明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に対して、遥かに想いを馳せられ、親王の御遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれました。親王終焉の地・東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら宮号を「鎌倉宮(かまくらぐう)」と名づけられました。こうして創建されたのが鎌倉宮なのです。

なお、明治六年(1873年)四月十六日、明治天皇は鎌倉宮に行幸遊ばされました。本殿をお参りされ、土牢をご覧になり、その後境内の行在所でお休みをとられました。その行在所の跡が、現在の鎌倉宮宝物殿・儀式殿となっています。


8)拝殿から本殿へ向かう廊下。


9)本殿奥、土牢前の扉。拝殿・本殿・土牢が一直線に配されています。


10)『護良親王御土牢』説明板。


11)土牢。


12)土牢。


13)土牢前の供養串の台。


14)供養串の台。


15)供養串。


16)土牢から、鎌倉宮碑へ向かいます。


17)『鎌倉宮碑』説明板

明治六年四月十六日、車駕鎌倉に幸し、親しく故・征夷大将軍・二品・護良親王を祭らせ給ふ。

越えて十七日、闕(けつ=宮城)に還らせ給ひ、太政大臣・三條實美に勅して曰く、

「親王は皇室式微(しきび=衰退)・武臣専横の日に在り、艱楚嶇嶔(かんそくきん=険しく苦しい道のり)、遂に能く鴻業を恢復す。而して貝錦萋斐(ばいきんせいひ=巧みに言い立てて罪に陥れる)、冤を呑みて薨し給ふ。朕、之を憶ふ毎に未だ甞て歔欷(きょき=むせび泣き)して泣下らずんばあらざるなり。今、親しく遺跡を弔ひ、感慨殊に深し。顧みるに、朕、否徳、幸に泰運に膺り(あたり)、大権を既墜(きつい=本来の場所)に復す。祖宗の遺徳と股肱の力を致したるとに由るといふと雖も、亦、親王の霊、冥冥の中に翼賛したる者なしと謂ふべからず。卿、其れを表彰する所以を図れ」と。

實美、拝し稽首して曰く、

「敬みて(つつしみて)明詔を承はる。抑(そもそも)、親王の忠憤義烈、身を以て国に殉ず事は史冊に具(つまびらか)にして必ずしも称揚を待たず。惟ふ(おもふ)に陛下の聖明、今日にして斯の挙あり。洵に(まことに)是れ曠古(こうこ=空前)の盛典にして、独り親王の地下に瞑目せさせ給はむのみならず、陛下の聖徳も亦、将に久遠に伝はりて泯び(ほろび)ざらむとする也。請ふ、諸れ(これ)を石に勒(ろく=録)せむ」と。

上、曰はく、「可なり」と。

是に於て少内史・巌谷修、命を奉して其(その)由を記し、係ぐる(かかぐる)に銘を以てす。銘に曰く、

土窟幽暗 土窟(どくつ=土の洞穴)幽暗(いうあん=奥深く暗い)

久没蒿蓬 久しく蒿蓬(かうほう=蒿草と蓬草)に没す

昌運維新 昌運(しゃううん=盛んな時節)維れ新に(これあらたに)

有煥其宮 煥たる(くわんたる=光り輝く)其(その)宮あり

明主之徳 明主(明治天皇)の徳

親王之忠 親王(護良親王)の忠

千秋赫奕 千秋(せんしう=長い年月)赫奕(かくえき=光り輝く)

熟不欽崇 孰れ(いづれ)か欽崇(きんすう=敬い尊ぶ)せざらむ


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