明月院の境内(撮影:2009年12月17日)


1)鎌倉市山ノ内、JR横須賀線第三鎌倉道踏切の北から、明月院通りへ入ります。


2)明月院通り。


3)明月院の総門。


●鎌倉市観光協会『明月院』

境内に多くのアジサイが植えられ、「アジサイ寺」と呼ばれる。北条時頼の建てた最明寺跡に、子の時宗が禅興寺を建立。明月院はこの塔頭として室町時代、関東管領上杉憲方によって建てられた。明治期に禅興寺は廃絶され、現在は明月院だけが残されている。

開山堂(宗猷堂・そうゆうどう)には、密室守厳の木像を安置。そのそばには鎌倉十井の一つ「瓶の井(釣瓶の井)」がある。また山際に掘られた明月院やぐらは鎌倉時代最大のもの。上杉憲方の墓とされる宝筺印塔が内部にある。


4)鎌倉石の参道と山門。


5)参道から方丈を望みます。


6)方丈。『明月院』パンフレットの案内図には、本堂と記されています。


7)方丈。


8)方丈の生花。


9)明月院方丈の円窓。


10)明月院方丈の円窓。


11)方丈前の枯山水庭園。


12)方丈前の枯山水庭園。


13)方丈の奥に開山堂(宗猷堂)があります。


14)『開山堂(宗猷堂)』説明板

このお堂は禅興寺隆盛時代(1380年頃)明月院境内の中に建立されていた宗猷堂(そうゆうどう)を後に開山堂としたものである。

堂内中央には建長寺開山蘭渓道隆(大覚禅師)の五代目の法孫で当院開山密室守厳禅師(1390年6月9日示寂)の木像、向かって左に最明寺・禅興寺・当院の歴代住持の位牌が祀られている。


15)開山堂(宗猷堂)。


16)『瓶の井(釣瓶の井)』説明板

鎌倉十井の一つ。岩盤を垂直に掘り貫いて造ったとみられ、その内部が水瓶のようにふくらみがあることから「瓶の井(かめのい)」と呼ばれ、鎌倉十井の中でも現在使用できる井戸としては数少ない貴重な存在である。

鎌倉十井とは、江戸時代、水質があまり良くなかった鎌倉の地において、数多くある井戸の中でも良質の水が湧いたと伝えられる十の井戸。


17)瓶の井(釣瓶の井)。


18)瓶の井(釣瓶の井)。


19)開山堂の横、崖の前の黄葉。


20)『明月院やぐら(羅漢洞)』説明板

「やぐら」は中世鎌倉時代特有の洞窟墳墓である。開口七メートル、奥行六メートル、高さ三メートルで、鎌倉市現存の最大級である。

壁面中央には釈迦如来・多宝如来の二仏と両側に十六羅漢を浮き彫りにし、中央に明月院中興開基、上杉憲方公をまつる宝篋印塔、その前には禅宗様式を表わした香炉が安置されている。

このやぐらは、もともと、永暦元年(1160年)平治の乱、京都で戦死したこの地の豪族、山ノ内俊道の菩提供養の為に子供である山ノ内経俊によって造られたと伝えられ、その約二百二十年後に上杉憲方が生前に自から墓塔を建立したと伝えられるが、凝灰岩質であるために風化が著しく、それらの彫成年代は明確ではなく今後の解明が待たれる。

上杉憲方公は上杉重房公の四代目の曾孫で山ノ内上杉家の祖。憲方公の子孫の憲政の時、北条氏康との戦に敗れ越後の長尾景虎を頼り上杉の家名をゆずった。長尾景虎は後の戦国時代の武勇、上杉謙信である。


21)明月院やぐら。


22)明月院やぐら内部の宝篋印塔と香炉。


23)明月院やぐら内部の釈迦如来・多宝如来の浮き彫り。


24)明月院やぐら内部の十六羅漢の浮き彫り。


25)開山堂から総門へ戻る途中の紅葉。


26)総門の近くに、北条時頼公廟所と北条時頼公墓所があります。


27)『北条時頼公墓所』説明板

宝篋印塔・五輪塔等の部材を組み合せた石塔で、石積みの壇上に安置されている。

父は時氏、母は安達景盛の娘で賢母と言われ徒然草(第一八四段)にも登場する松下禅尼の次男として、安貞元年(1227年)生誕。

祖父三代執権、泰時の善政の後を受け継ぎ、寛元四年(1246年)十九才で五代執権職につく。ますます北条政権を確固たるものに築き一族の全盛期を迎える一方では、禅宗に深く帰依した。

建長五年(1252年)中国の高僧、大覚禅師(蘭渓道隆)を開山に迎え、わが国最初の禅の専門道場、建長寺を創建。

康元元年(1256年)にはこの地、最明寺において、建長寺開山大覚禅師を戒師とし三十才の時出家。僧名は覚了房道崇と号し、執権職を長時にゆずる。

弘長三年(1263年)十一月二十二日、三十七才の生涯を終える。


28)北条時頼公墓所。


●明月院『国指定史跡・明月院』より

明月庵の創建は今から八百三十年前、永暦元年(1160年)にはじまる。この地の住人で、平治の乱で戦死した首藤刑部大輔俊道の菩提供養として俊道の子、首藤刑部太夫山ノ内経俊によって創建。

その後、康元元年(1256年)、北条相模守時頼公によって、この地に「最明寺」を建立(現在、明月院西北の場所)。言うなれば北条時頼の別業の仏堂。時頼は三十才で出家、僧名を覚了房道崇と号し、弘長三年(1263年)十一月二十二日、三十七才で卒去。法名、最明寺殿崇公大禅定門。

『遺偈』(辞世の句)

業鏡高懸/三十七年/一槌打碎/大道担然

業鏡高く懸(かか)げ/三十七年/一槌にして打ち砕き/大道坦然たり

のちに北条時宗(時頼の子)が最明寺を前身として「福源山禅興仰聖禅寺」を再興。開山は建長寺開山大覚禅師の五世法孫の位地にあった密室守厳禅師。

康暦二年(1380年)、時の関東公方足利氏満が管領上杉安房守憲方に禅興寺の中興を命じ、伽藍を完備、寺域を広大にし、支院を配置させた。

足利三代将軍義満天下の時、大寺院を選ぶにおいて禅興寺を関東十刹の一位とする。明月庵は「明月院」とあらためられ、支院の首位におく。本尊、聖観世音菩薩。その当時の「明月院絵図」にありし日の堂塔伽藍を偲ぶ。

禅興寺は明治初年廃寺となり、「明月院」のみを残し今日に至る。現在、臨済宗建長寺派・福源山明月院。


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