光明寺の裏山(撮影:2009年12月21日)


1)鎌倉市材木座、光明寺の総門。後方に山門が見えます。


●光明寺『光明寺について』より

この寺は、天照山蓮華院光明寺といい、浄土宗の大本山です。創立は鎌倉時代の寛元元年で西暦1243年といわれています。寺を開かれたのは浄土宗三祖然阿良忠上人です。

良忠上人は鎌倉幕府第四代の執権、北条経時公の帰依を受けてこの光明寺を開かれたといわれています。その後も第五代の執権、北条時頼公をはじめ歴代執権の帰依をうけ、七堂伽藍を整え、関東における念仏道場の中心となり、後土御門天皇より『関東総本山』の称号を受け、国と国民の平安を祈る『勅願所』となりました。

江戸時代になると、徳川家康公は当山を関東十八檀林の筆頭におき、念仏信仰と仏教研鑽の根本道場となりました。檀林とは徳川幕府が定めた学問所です。


2)光明寺の山門。


3)山門前から、大殿を望みます。


4)光明寺の大殿。

元禄十一年(1698年)の建立。現存する木造の古建築では鎌倉一の大堂で、本尊阿弥陀三尊ほか諸仏を祀っています。かつては開山上人像を安置して祖師堂と称していました。仏堂でなく祖師堂を本堂とする伽藍形式は、知恩院をはじめとする京都の浄土宗本山の通例です。百本柱のお堂としても有名。国指定の重要文化財。


5)大殿前から山門を望みます。


6)現在の開山堂。


7)大聖閣。


8)善導塚。


9)善導大師像。

善導大師は、中国唐代の人で『観経疏』等五部九巻の書物を著し、浄土念仏の高祖として、法然上人これに偏依して浄土宗を開かれ、三祖もまた帰依を厚くされました。


10)記主庭園。


11)三尊五祖石庭。


12)三尊五祖石庭。


13)繁栄稲荷社。

昔、開山上人が佐介におられた時、子狐を助けられました。その夜の夢に、親狐が現れてお礼にと薬種をおいていきました。夢がさめても薬種は目の前にあり、これを疫病流行の時にまいて、その葉を与えると、ことごとく快癒したといわれています。庶民のよろこびきわまりなく、上人はこれを見て、これ佐介稲荷の神助なりとおおせられました。後代、この謂れにより佐介稲荷を当山に勧請して奉安されたものです。


14)大殿前から、かながわの景勝50選「光明寺裏山の展望」選定地付近を望みます。


●光明寺『天照山』

光明寺の背後の山を総称して天照山といいます。天照大神の尊像を記主禅師感得せられたのをもって、その名を付せられたといいます。中腹に開山の良忠上人をはじめ歴代の墓所があります。また、光明寺の開基である北条経時公(法名、蓮華寺殿安楽大禅定門)の墓所があります。

天照山からの景観は「かながわの景勝50選」にも選ばれました。


15)『かながわの景勝50選・光明寺裏山の展望』石碑。


16)光明寺裏山から、山門を望みます。

現在の山門は弘化四年(1847年)に造られたものです。間口約16メートル、奥行約7メートル、高さ約20メートルで、鎌倉の寺院の門では最大の格式を備えた山門です。

五間三戸二階二重門といわれる門で、一階が和風、二階が中国風に造られています。禅宗の五山形式が浄土宗に取り入れられたものです。


17)光明寺裏山から、大殿を望みます。


18)箱根山(光明寺裏山より)。


19)江ノ島と稲村ヶ崎(光明寺裏山より)。


20)富士山(光明寺裏山より)。


21)坂ノ下方面(光明寺裏山より)。


22)材木座海岸方面(光明寺裏山より)。


23)坂を降って「内藤家墓所」へ向かいます。


●光明寺『内藤家墓所』

陸奥国磐城、日向延岡藩主内藤家一族の墓所。江戸初期に光明寺の檀家になりました。このように大規模な大名の墓所が一ヶ所にまとまっているのは全国的に珍しいといえます。


24)内藤家墓所。


25)内藤家墓所。


26)内藤家墓所。


27)内藤家墓所。


28)内藤家墓所。


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