旧相模川橋脚(撮影:2010年2月4日)


1)茅ヶ崎市下町屋、国道1号線沿いに「旧相模川橋脚」モニュメントが建っています。


2)モニュメントから奥へ進むと、四角い池のようなものがあります。


3)池の中から、杭が突き出しています。


4)池の畔の『旧相模川橋脚』解説板。


5)解説板の『案内図』。


6)解説板の『調査区と橋脚の位置』。


●文化庁『旧相模川橋脚』解説文

旧相模川橋脚は、大正十二年九月一日の関東大震災及び大正十三年一月十五日の余震に伴う液状化現象により、水田の中から出現した橋脚の跡である。歴史学者沼田頼輔博士が『吾妻鏡』に基づき、建久九年(1198年)に源頼朝の重臣稲毛重成が亡妻の追善供養のために架橋した橋脚と考証し、大正十五年に史跡指定された。

最近まで池の中に保存されてきたが、水上に露出した部分の腐食が進んだため、茅ヶ崎市教育委員会では平成十三年から保存整備を目的とした内容確認の発掘調査を実施した。

三次にわたる発掘調査では、新たに見つかった橋杭1本を含めヒノキ製の橋杭が合計で10本確認され、2メートル間隔で三本からなる一列の橋脚が、10メートル間隔四列に配置されていた。

橋杭については年輪年代測定により西暦1126年から1260年に伐採されたことが判明し、また橋杭の周辺に地震による墳砂・噴礫の痕跡や、橋脚に近接する川岸の護岸のために構築された中世前半期の厚さ11センチメートルもの横板・角柱・礫等による土留遺構等も確認された。

さらに、中世後半期(16世紀代)の土坑墓群や大正末期から昭和初期の保存措置として行われた護岸遺構も確認され、土地利用の変遷や保存手法の状況も明らかになった。

今回、確認された橋脚に関連する中世前半期の土留遺構や旧相模川を含めた遺跡の範囲が指定地外に広がることから、追加指定をして保護の万全を図ろうとするものである。


7)橋杭1(右)と橋杭2(左)。

保存整備の際、橋脚は現地から動かさずに保管され、埋め戻した上部に復元模型(レプリカ)が設置されました。


8)橋杭2(左)、橋杭3(中)、橋杭4(右)。橋杭三本で一組の橋脚が構成されます。


9)橋杭2(左)と橋杭5(右)。


10)橋杭3(手前)、橋杭5(左端)、橋杭6(右端)、橋杭7(奥)。


11)辛うじて水面上に出ている橋杭8(手前)。


12)水面下の橋杭9(中央)。


13)沼田頼輔『湘南古橋行』の碑。


14)解説模型。


15)史跡の西側、小出川に架かる国道1号線の下町屋橋。


16)下町屋橋から、小出川の上流方向を望みます。


17)下町屋橋から、小出川の下流方向を望みます。画面よりも左に史跡があります。


18)下町屋歩道橋から小出川の護岸壁と史跡を望みます。

川は手前から奥の方向へ流れ、橋は横方向に架けられていたと推定されています。


●国土交通省関東地方整備局京浜河川事務所『旧相模川橋脚』より

この橋は、鎌倉時代の建久九年(1198年)、源頼朝の家来であった稲毛重成が、亡き妻(北条政子の妹)のために相模川に架けた大橋である事が、歴史学者・沼田頼輔博士の鑑定によってわかっています。

また、頼朝がこの橋の竣工式に出席した帰り、平家の亡霊に驚いた馬が暴れ出して川へ落ちてしまい、それから相模川の下流部分は馬入川(ばにゅうがわ)と呼ばれるようになった、そして頼朝は、この時の落馬の傷がもとで死亡したという説もあります。


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