早川城(撮影:2010年3月22日)


1)綾瀬市役所付近から、早川城跡を遠望します。住宅の後に見える樹林が城跡です。


2)早川城跡の北側を通る道路。


3)早川城跡は、城山公園として整備されています。


4)綾瀬市『早川城跡』説明板

早川城跡は、地元では古くから「城山(じょうやま)」と呼ばれ、鎌倉時代の御家人渋谷氏の城と伝えられています。しかし、文献資料がないことから、その実態は明らかではありませんでした。

そこで、綾瀬市教育委員会では平成元年度から平成六年度にかけて、早川城跡の学術調査を行ないました。

発掘調査によって、堀切・土塁・物見塚・曲輪等、多くの城郭関連遺構が発見され、県内でも有数な保存状態の良好な中世城郭であることが明らかとなりました。また、城郭が構築される以前には、縄文時代や古代の集落が営まれていたことも明らかとなりました。


5)綾瀬市『城山公園案内図』園内掲示。郭と堀切の位置を付記しました。


6)「入口広場」のあたりが早川城の「二郭」とされます。


7)綾瀬市『渋谷氏と早川城跡』説明板

渋谷氏は平安の末期、綾瀬市域を中心に渋谷荘(吉田荘)という荘園を支配し、勢力をもった武士でした。『吾妻鏡』によると、平治の乱(1159年)に敗れて奥州に落ち延びていく源氏の重臣佐々木秀義を渋谷重国が保護したとの記事があることから、この頃までには綾瀬市域一帯を支配下に置いたものと思われます。

鎌倉時代になると、渋谷重国は源頼朝の家臣である御家人となり、その子高重が後をつぎました。高重は早川次郎と名乗り、早川に拠点を置いて一族を統率していたものと思われます。

和田合戦(1213年)では高重は和田義盛に組したため高重はじめ多くの一族が討たれましたが、宝治合戦(1247年)の後、その軍功により薩摩国入来院ほかに所領を得、地頭となり、その際多くの一族が移って行きました。しかし、室町時代の初め頃までは綾瀬市域に渋谷氏の支配が続いたと思われ、その一族が早川城を築城したものと考えられます。


8)「桜の広場」から「入口広場」を望みます。境界に北側堀切が通っています。


9)綾瀬市『堀切と土塁』説明板

鎌倉時代に築城されたと推定される早川城跡は、天守閣を持つ江戸時代の城と異なり、自然の地形を巧みに利用し、堀切と土塁を周囲に巡らした「砦」的な要素の強い城郭であることが発掘調査によって明らかとなりました。堀切とは外敵の進入を防ぐため、城の周囲に巡らされた堀のことです。

堀切の内側には、堀切を掘った土を利用して、土塁と呼ばれる高い土手を築き、さらに堅固な防御施設を作り上げています。早川城の場合、東西及び南側は急峻な崖に囲まれ、自然の要害となっています。しかし、北側は平坦なため、幅約11メートル、深さ5メートル以上という大規模な堀切と土塁を築いて敵の侵入を阻んでいます。

早川城は、有事の際に周囲に暮らす武士たちが集結して、外敵の進入に備える防御施設として、また、領民に対しては、権力を誇示するシンボルとしてそれぞれ機能していたものと思われます。


10)「遊具広場」から見た北側堀切の西部。奥は「桜の広場」入口前の園路です。


11)園路から見た北側堀切の東部。奥は「湿生園」です。


12)「桜の広場」から見た土塁。


13)「桜の広場」のあたりが早川城の「本郭」とされます。


14)「桜の広場」です。


15)綾瀬市『物見塚と東郷氏祖先発祥地碑』説明板

早川城本郭の西側に位置するこの塚は、物見塚と呼ばれています。南北21メートル、東西23メートル、高さ約2メートルの塚です。発掘調査の結果、表土直下に宝永火山灰(1707年、富士山の噴火による火山灰)が見られることから江戸時代初期以前に築かれていることは明らかです。また塚の作り方が土塁と同様の版築(黒土と赤土を交互に敷きつめて突き固めたもの)であることから、城郭の関連遺構の一つであり、外敵の進入を見張るために築かれた塚であると思われます。

物見塚の上には、昭和七年に祖先発祥地東郷会により建てられた「東郷氏祖先発祥地碑」があります。この碑は日露戦争で有名な旧海軍元帥である東郷平八郎の祖先の地であることを記念して建てられたものです。東郷家は、早川城主であったと伝えられる渋谷氏の末裔の一つでした。


16)物見塚と東郷氏祖先発祥地碑。


17)湿生園。これから「本郭」の周りを巡ります。


18)「湿生園」の南端。斜面の上に公園東口の門柱が見えます。


19)公園東口の門柱。


20)「花木園」。


21)「花木園」。


22)綾瀬市『腰郭と竪堀』説明板

早川城跡西側の斜面からは、腰郭と呼ばれる防禦施設が二ヶ所発見されました。腰郭とは、斜面を人工的に切り崩して平坦面を作り出したもので、敵の侵入を見張り、いざ敵が攻めてきたときには、第一線の防禦施設として機能していたものと考えられます。

早川城跡の西側斜面は、東や南側の斜面に比べ緩やかであり、外敵が侵入しやすい地形です。このため、要所に腰郭を配して敵に備えています。早川城跡では、いずれの腰郭からも柱穴が発見されており、小規模な建物が建てられていたようです。

竪堀とは、城郭の斜面に直交して掘られた堀のことをいいます。要所、要所にこうした竪堀を設けることによって、敵の侵入を防ぎ、より堅固な防禦施設を作り上げています。

早川城跡では、北側堀切の両端部、及び南端部からこうした竪堀が発見されました。南端部の堀切内からは、当時の貨幣として使われた渡来銭(中国の銅銭)が出土しています。


23)説明板の前の崖下に平坦地が見えます。「南西部腰郭」でしょうか。


24)「日本庭園」。


25)「日本庭園」。


26)「遊具広場」のあたりが早川城跡の「北西部腰郭」とされます。


27)綾瀬市『1号柱穴列から出土した火舎片』説明板

平成三・四年度の発掘調査の結果、早川城の北西部の斜面に段切して作られた腰郭に掘建柱建物の柱穴列が見つかりました。柱穴は全部で五つで、その内の四つは直径が50センチメートル、深さが70センチメートルあり、建物の主柱用の穴であると思われます。早川城の関連施設の一つで、見張り小屋的機能をもった建物跡と思われます。

この柱穴列の箇所より、かわらけとともに瓦質でできた火舎の口縁部の破片(口径42センチメートル)が出土しました。火舎とは火鉢のことです。口縁の部分には二本の沈線の間に押印菊花文が、また、その直下と下端部分にも珠文帯がめぐっています。このような特徴から十四世紀ごろ(鎌倉時代後期から室町時代の前期)作られたものと推定されます。中世の出土遺物が少ないなか、早川城の成立を解明していく上で貴重な遺物の一つです。


28)「遊具広場」の片隅に木馬がありました。


◇BACK:神奈川県の城郭【グレゴリウス写真館の目次】

◇HOME:グレゴリウス写真館