茅ヶ崎城(撮影:2010年4月26日)


1)横浜市営地下鉄「センター南」駅から東に、茅ヶ崎城址の西面南部を望みます。


2)茅ヶ崎城址の西面北部を望みます。前画面の左になります。


3)茅ヶ崎城址は、横浜市都筑区茅ヶ崎東に所在し、市立公園として整備されています。


●横浜市『茅ヶ崎城址公園』説明板

茅ヶ崎城址は、「空堀」「郭」「土塁」などが良好な状態で残る、貴重な中世城郭遺跡です。早渕河を北に望む自然の丘を利用して築城されています。

茅ヶ崎城は14世紀末~15世紀前半に築城されたと推定され、15世紀後半に最も大きな構えとなります。16世紀中ごろには二重土塁とその間に空堀が設けられました(この築城方法は、後北条氏独特のものとされる)。築城には、それぞれの時期に相模・南武蔵を支配した上杉氏(室町時代)や後北条氏(戦国時代)が関与していたと推定されます。

16世紀末までには、城としての役割は終わります。江戸時代には、徳川氏の領地となり、村の入会地(共有地)などとして利用され、「城山(じょうやま)」という地名とともに、今日まで保存されてきたのです。茅ヶ崎城址は、貴重な歴史資産なのです。


4)横浜市『茅ヶ崎城址公園』案内図(園内掲示、文字等を修整)。


5)北郭。公園入口の広場になっています。


6)北郭の『井戸』説明板と遺構。


『井戸』

戦となれば長期に立て籠もることもあった城にとって、建築する土地を決める際に水が湧く場所かどうかも重要な要素でした。井戸は重要な設備として城内に複数つくられ、また、警護も厳重でした。

茅ヶ崎城址では北郭で上端の直径約4メートル、深さ5メートルほどの井戸が見つかっています。この井戸の湧水量は極めて多く、使用時にはかなりの量の水を確保できたと考えられます。遺構確認面から井戸底まですべてに水がたまっていたと仮定すると20リットルポリタンク約1,000本分にも達します。

井戸の周囲からは使用する際に、横板や梁を渡して水を汲む簡素な施設が建設されたと思われる遺構がみつかっています。


7)北郭の『北郭土橋』説明板。


『北郭土橋』

北堀の中央西部を掘り残したもので、上幅は2.9メートル、下幅は4.5メートル以上あります。横断面は幅広の台形で東壁は60度・西壁は70度となっていました。

土橋に続いて、幅2メートル弱の土を固めた道路が郭内にのびています。この道が始まる両側には対になる柱穴があり、木戸の痕跡と考えられます。

『土橋』

土橋は「虎口(こぐち)」とよばれる、城の出入り口に設けられる施設です。一般的には、郭周辺の空堀の一部を堀り残してつくられます。

茅ヶ崎城址では、北郭土橋と西郭土橋のように空堀を堀り残してつくられたものと、中郭土橋のように東郭と結ぶために空堀の一部を埋めてつくられたものがあります。北郭土橋と西郭土橋は、早渕川沿いの道に向かって設けられています。


8)「北郭土橋」は北郭の柵の外側にあり、道路によって削られています。


9)北郭から西に向かう道を進むと「虎口」があります。


『虎口』

城の出入り口は「虎口(小口、こぐち)」といいます。いざというときに、すぐに封鎖できるように、また敵が侵入しにくいように、できるだけ幅を狭くしています。城の防御と攻撃の両面において重要な場所であり、様々な工夫が加えられました。

「横矢(よこや)」という侵入しようとする敵に横から矢を射掛けるための構造や、屈曲した堀などの「折邪(おりひずみ)」とよばれる構造が見受けられます。

茅ヶ崎城址では北側に推定する説がありますが、まだ発掘調査による確認がされていません。東郭南側にも虎口の存在が推定される場所があります。


10)道は南に折れて「空堀」が現れます。左は中郭の土塁、右は西郭になります。


『空堀』

堀は水の有無によって水掘と空堀に分けられます。水掘は主に低地の城につくられ、堆積物で埋まりやすい難点があります。水がしみ通ってしまうローム層を基盤とする横浜の城では空堀が多くつくられました。空堀は底が土で、その形状は横断面が逆台形の「箱堀(はこぼり)」が多く見られました。

茅ヶ崎城址の堀は、両側の壁が70度と垂直に近く、また、ローム層が堅いために取り付きにくく、防御面で大変すぐれていました。


11)中郭の内側から見た「土塁」です。


『土塁』

堀を掘った土を盛って築き上げた堤のことで、敵を阻止し反撃する際の足がかりとする役割がありました。したがって、規模の大きな土塁ほど防御効果が大きいといえます。

堀と土塁の築造は一体となって行われ、表土を削り、土盛りをする部分は山の斜面を平らに削って帯状のテラスを作りました。ここに黒土を置いて叩きしめ、盛り土が崩れないように基礎を作りました。このテラスからやや下った場所を等高線沿いに堀切、排土を斜面下方に水平に積んでいき土塁としました。本城址の主な土塁は堀底から7~8メートル、郭内から高さ2.5メートル以上、基底部の幅は7~8メートルあったと推定されます。

土塁の側面には「武者走り」とか「犬走り」とよばれる施設がつくられました。これは、連絡用の通路としての役割とともに、土塁を越えようとする敵を上方から攻撃するための足場としての役割もありました。


12)空堀の途中に、西郭への通路が作られています。


13)『西郭』の標柱。


14)西郭。奥の築山のように見えるのは、空堀を隔てた中郭の土塁です。


15)西郭から北に、横浜市営地下鉄「センター北」駅方面を望みます。


16)西郭を出て、城址南側の道を東に進むと、中郭と東郭への分岐点があります。


17)『中郭』の標柱。


『郭』

堀や土塁、石垣などで囲まれた区画を郭(くるわ)といい、「曲輪(くるわ)」とも表記されます。江戸時代には「丸(まる)」とも呼ばれました。城は、郭をいくつも作り出すことで成り立っています。城の中心となる郭は「主郭(しゅかく)」または「本曲輪(ほんぐるわ)」と呼ばれ、江戸時代には「本丸」と呼ばれました。

また、戦国時代の丘城(おかじろ)は、自然の地形を巧みに利用して築かれています。主要な郭の外側や丘陵の中腹にもさまざまな区画が見られます。主要な郭をめぐる堀の外側を取り囲むように作られる「帯郭(おびぐるわ)」、主要な郭の外側の一部に作られる「腰郭(こしぐるわ)」などがその代表といえます。

『茅ヶ崎城址の郭』

茅ヶ崎城の場合、石垣は見られず、堀と土塁によって区画されています。「東郭」「中郭」「西郭」「北郭」の四つが主要な郭です。

「東郭」が主郭に相当すると考えられます。東西50メートル、南北20メートルの不整長方形をしており、頂部の平坦面が「中郭」より3メートルほど高い位置にあります。建物などの痕跡はまだ確認されていませんが、この郭は、戦闘時における最後の拠点となる場所でもあったと推定されます。

茅ヶ崎城では「東郭」北東部に接する一段低い位置に「腰郭」が見られます。その北西には東北郭がありますが、この郭の詳細は明らかではありません。また、それぞれの役割は不明ですが、丘陵の中腹には「平場(ひらば)」と呼ばれるテラス状の平坦部が複数見られます。


18)中郭。公園中央の広場になっています。


19)中郭から北に、横浜市営地下鉄「センター北」駅方面を望みます。


20)中郭の『遺構』説明板。


『遺構』

遺構とは、土地(地中)に残された基壇や柱穴、墓などのことで、昔の構造物の様式や配置などを知る手がかりとなるものです。

『倉庫の発見』

中郭の住居域と見られた部分の内容を明らかにするため、郭内南東部の発掘調査を行いました。その結果、全面に多数の柱穴や土坑が分布し、東西・南北に軸を持つ掘立柱建物が並び、南土塁との間を塀で区切っていることが明らかになりました。

建物1~3内の土坑は陶器の埋納坑と推定され、これらの建物は倉庫と考えられます。また、建物5から炭化材とともに焼けた壁土のかけらが多数検出され、焼失した土倉と判明しました。

このことから、中郭南東部は倉庫地区であることが明確となりました。また、遺構はその重なりや位置関係から四~五期の変遷があることもわかりました。住居施設としての建物あとは、これまでのところ確認されていません。


21)「遺構」の位置が石で示されています。


22)『根小屋』説明板。中郭付近、城址の南斜面を見下ろす場所にあります。


『根小屋』

根小屋(ねごや)とは、城下町というものがまだない時代の、城主や重臣達の居住地区のことです。この時代の城主は普段は本丸や主郭に居住せず、郭の麓につくられた根小屋で生活し、いざ戦となったときにのみ、城に籠もりました。

茅ヶ崎城址では南・東の崖面裾に幅10~20メートル、東西600メートルに及ぶ平場が展開しており、14世紀から15世紀に蔵骨器や板碑などから成る墓地を伴う屋敷があったと考えられています。


23)中郭付近から南に茅ヶ崎東小学校を望みます。根小屋は手前の崖面裾になります。


24)中郭と東郭と結ぶ「中郭土橋」。


『中郭土橋』

中郭と東郭は上幅14メートル・深さ7メートルの堀によって隔てられていますが、その中央部は土橋によって連結されています。土橋は上幅約2メートル・下幅約15メートルで、上面は中郭より約2メートル・東郭より4メートル低くなっています。このため中郭への上り下りは容易ですが東郭方面は何かに掴まらないと登れないほどの急傾斜でした。

調査の結果、この土橋は地山を掘り残したのではなく、盛り土によって形成されていたことがわかりました。土橋の下には空堀があり、中郭東側と東郭の土塁は失われていることから、城の後半または廃絶後に通路としてつくられたようです。


25)『東郭』説明板。


『東郭』

東郭は城の中でも最も高い位置にあり、「中原街道」や「矢倉沢街道」の街道筋を見渡せるほど見晴らしがよいため、物見台の役割を持っていました。

また、城郭の中でも最高所にあるため、戦の際には最後に逃げ込んで籠城する場所と推定されています。

『腰郭』

腰郭は東西60メートルの帯状をなし、東北部は約200平方メートルの平場となっています。東側は急な崖で、北側には幅10メートルほどの北堀があり、東北郭との間を遮断しています。この北堀の内側には土塁が延びています。この郭は、武者溜(むしゃだまり)としての役割があったと推定されます。


26)東郭。茅ヶ崎城の主郭に相当すると考えられています。


27)東郭北側の土塁。この奥が「腰郭」と思われます。


28)最後に『茅ヶ崎城址』説明板です。公園入口(北郭)にあります。


『城の立地と歴史的環境』

茅ヶ崎城は、早渕川中流右岸の三角山(現:センター南駅付近の旧地形)から東に連なる丘陵の先端部に築かれた丘城です。標高は28~35メートルあり、最高所は中郭南西隅の土塁上で、およそ40メートルあります。

当地域は、武蔵国南部にあたり、関東の政治の中心地である鎌倉に隣接しています。茅ヶ崎城の近くには、関東各地と鎌倉を結ぶ鎌倉道のうち「中の道」が通っていたと考えられており、東側には後の中原街道、西側には矢倉沢街道(大山道)が通じています。また、早渕川沿いの道は神奈川湊(横浜市神奈川区)と武蔵国府(東京都府中市)を結ぶルートのひとつでした。茅ヶ崎城は、このような交通の要衝の地に自然の地形を巧みに利用して築かれていたのです。

『茅ヶ崎城をとりまく歴史的背景』

1338年、足利尊氏が京都に室町幕府を開くと、鎌倉には関東の統治機関として鎌倉府が置かれ、「鎌倉公方」足利氏と、その補佐役の「関東管領」上杉氏が力を持ちます。

15世紀半ばになると、鎌倉公方と上杉氏の対立、また、上杉氏一族の内紛が激しくなり、関東を中心に大規模な戦乱が起こります。1476年の上杉氏家臣長尾景春の乱では、小机城が太田道灌に攻め落とされます。

15世紀終わり頃、伊勢新九郎長氏(北条早雲)は関東支配を進め、1495年の小田原城の奪取をはじめとして、関東各地に支城を中心とした領国をつくっていきました。このころ茅ヶ崎城は、周辺の城とともに小机城を中心とする後北条氏の勢力下に組み込まれていたと考えられています。茅ヶ崎城の最高所に高さ8メートルほどの櫓を設置すれば、およそ3.5キロメートル離れた小机城を望むことができたようです。

1590年には、豊臣秀吉の軍勢がこの地に押し寄せます。この時、茅ヶ崎城を含む11ヶ村に対して軍勢による略奪や放火を禁止した豊臣秀吉の禁制が発布されています。その後、徳川家康による江戸幕府の開府を経て、1615年に一国一城令が出されると、多くの城は廃城となりました。

『茅ヶ崎城の移り変わり』

茅ヶ崎城は早渕川に張り出す自然の丘のくびれ部を堀切して築かれています。規模は、東西330メートル、南北200メートル、総面積はおよそ55,000平方メートルあります。複数の郭が連なる形式で、郭を取り巻く空堀、郭の外縁部に築かれる土塁などで構成されています。天守閣のような大きな建物や石垣はありませんでした。

発掘調査の結果、築城年代は14世紀末~15世紀前半頃と考えられ、少なくとも二度にわたる大規模な改築のあとが認められました。

築城当初は、東西二つの郭のみでしたが、15世紀後半頃には、土塁の改築と空堀の堀り直しが行われ、郭が西郭・中郭・東郭・北郭の四つになったと考えられます。中郭(当初の西側郭)の南東部から、倉庫と考えられる建物などが見つかっています。この時期に相模国と武蔵国を支配していたのは関東管領上杉氏であり、茅ヶ崎城の改築にも影響を与えていたと推定されています。

16世紀中頃には、二重土塁の間に空堀をめぐらせるなど、後北条氏独特の築城方法による防備の強化がなされています。中郭の東寄りには新たに「中堀」も掘られています。この堀の脇に土塁が見られない点から、防備の強化は未完成のままであった可能性もあります。この頃の城主については、後北条氏の家臣団で小机衆のうちの座間氏や深沢備後守という説があります。

茅ヶ崎城の南側の谷に望む山すそから、かつては14・15世紀のものと考えられる常滑産の蔵骨器や板碑が発見されています。墓地に伴うこれらの出土品は、「根小屋」とよばれる平時の生活拠点エリアが形成されていた可能性があることを物語っています。

中世城郭は、軍事拠点としてだけではなく、戦時における地域の避難施設でもありました。城内には、籠城の備えとしての食べ物を貯え、井戸を掘ることが行われました。また食料になるように植物も植えられ、管理されていたと考えられます。


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