桜土手古墳群(撮影:2010年5月13日)


1)秦野市堀山下、秦野市立桜土手古墳公園の入口。


2)秦野市立桜土手古墳公園『施設案内』

この公園には6基の古墳が保存され、1基の古墳がつくられた時の形に復原されています。復原古墳は、発掘調査した古墳をモデルにして新たにつくったものです。保存古墳の6基は、秦野市の史跡に指定されています。


3)秦野市立桜土手古墳公園『案内図』


4)公園は水無川沿いに位置し、丹沢の山並みを間近に望みます。


5)公園のモニュメント広場です。


6)桜土手古墳展示館キャラクターの桜子さんと、ラビさんです。


7)『復原古墳』説明板

この古墳は、昭和四十九年(1974年)に発掘調査した1号墳を、図面や写真をもとに復原したものです。径28メートル・高さ5.6メートルで、幅約5メートルの周溝をめぐらしており、桜土手古墳群の中で一番大きなものでした。1号墳は、桜土手古墳群の一番南に、他の古墳とは少し離れて造られていました。


8)復原古墳。


9)復原古墳。


10)復原古墳。


◆『桜土手1号墳・墳丘のようす』

1号墳は墳丘の中程に平らな面のある二段構造です。遠くから見るとお供え餅のような形をしています。そして斜面には、葺石(ふきいし)といって河原石が葺かれていました。古墳時代の人が見た古墳は、このような形だったのでしょう。

1号墳の墳丘上から大きな須恵器(すえき)が発見されています。これには叩き割ったと思われる跡があり、埋葬儀式の時、何らかの理由で割ったものではないかと思われます。

◆『桜土手1号墳・墳丘内部のようす』

石室に積んだ石をしっかり固定するために、石と土の間に砂利などを詰め込みます、これを裏込めと呼びます。

1号墳の墳丘の中には、石室を取り巻くように石垣状の石組みがありました。この石垣はとても立派に造られていますが、古墳が完成した時には墳丘の中に隠れてしまい、見ることができません。同じものが7号墳にもありますが、これは他の地域の古墳には見られない特異な構造です。

◆『横穴式石室』

古墳で最も重要な、遺体を入れる場所です。入口は石を積んで塞がれますが、それを開けることによって何度も追葬することができます。

1号墳石室の石積みは、上にいくに従って少々狭くなり、その上に天井石を8個乗せています。その上を小石や粘土でおおい、石室内に雨水が入らないようにしています。

石室からは、壺などの須恵器や勾玉などの玉類、その他の鉄製品などが出土しました。


11)『保存古墳』説明板

桜土手古墳群の古墳の数は、第一次・第二次にわたる発掘調査の結果、35基であることがわかりました。

古墳は現在、古墳公園内に6基、日産車体内に5基、島津製作所内に1基、合計12基保存されています。

古墳公園内の保存古墳については、保護のための盛土をし、ほぼ元の大きさに復原しています。


12)保存古墳「26号墳」。

26号墳は、径14.5メートル・高さ2.1メートルの円墳で、その周りを幅約1.8メートルの周溝がめぐっています。


13)保存古墳「28号墳」。

28号墳は、径15.6メートル・高さ1.8メートルの円墳で、その周りを幅約1.7メートルの周溝がめぐっています。


14)保存古墳「29号墳」。

29号墳は、径15.6メートル・高さ1.4メートルの円墳で、その周りを幅約1.6メートルの周溝がめぐっています。周溝調査の時、葺石の一部と思われるものが発見されました。


15)保存古墳「30号墳」。

30号墳は、径22.8メートル・高さ2.5メートルの円墳で、その周りを幅約1.7メートルの周溝がめぐっています。


16)保存古墳。右が「31号墳」、左が「32号墳」です。

31号墳は、径11.2メートル・高さ0.8メートルの円墳で、その周りを幅約1.1メートルの周溝がめぐっています。

32号墳は、径14.5メートル・高さ2メートルの円墳で、その周りを幅約2メートルの周溝がめぐっています。


17)桜土手古墳展示館。


18)桜土手古墳展示館。


19)桜土手古墳展示館。


20)桜土手古墳展示館。


21)右の大きな壺は、1号墳の墳丘上にあった須恵器でしょうか。


22)広口壺。


23)右の長頸壺は、1号墳の石室にあった須恵器でしょうか。


24)古墳時代の情景を思い描きましょう。


25)古墳公園前の堀戸大橋から、水無川上流を望みます。


26)水無川上流を望みます。前画面の下になります。


●秦野市『秦野市の紹介・古墳時代』より

古墳時代は、畿内を中心に考えると三世紀後半から四世紀初めにかけて始まり、七世紀後半には終ったと考えられています。この時代は、大和政権が確立され、その権力が次第に地方へ浸透していきました。それとともに、古墳の築造が地方へひろまっていきました。南関東では、四世紀後半の古墳が最も古く、畿内よりも約一世紀遅れています。

秦野市とその周辺の遺跡を見ると、古墳時代前・中期は平塚よりの沖積平野の自然低湿地を中心に住居がひろがっていました。古墳時代後期以後は、次第に金目川沿いにさかのぼって秦野にむかって人々が移動しました。その原因としては、農業の発達により人口が増加し、新しい住居地を求めたため、さらに農業技術の進歩によりかんがい設備が整い、山あいの土地でも農業が行えるようになったという二つの要因が考えられています。こうして秦野盆地内の開拓が、この時代の人々によって進められました。

桜土手古墳群は、秦野盆地の西部、堀山下にあり、水無川の南側に位置しています。この場所は昭和四十九年から発掘調査が行われ、東西約500メートル、南北約300メートルの間に35基の古墳が分布していることが分かりました。

しかしこの地域は工場用地として利用されることになっていたため、現在では23基が埋め立てられ、残りの12基については市の重要史跡に指定され、古墳公園として永久に保存されることになっています。


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