勝坂遺跡(撮影:2010年6月24日)


1)相模原市南区磯部。随所に『発見のこみち勝坂案内マップ』が掲示されています。


2)案内マップに従って、史跡勝坂遺跡公園へ向かいます。


●相模原市『史跡勝坂遺跡(しせきかっさかいせき)』より編集

勝坂遺跡は、縄文時代中期(約5000~4500年前)の集落跡です。大正十五年(1926年)、大山柏氏によって発見された土器は、装飾的な文様や顔面把手(がんめんとって、顔を表現した取っ手)などによって注目を浴び、後に「勝坂式土器」として縄文時代中期の目安とされました。

また、同時に発見された多くの打製石斧(だせいせきふ)を、土を掘る道具と考えて原始農耕論が提唱されたことは、我が国の考古学史上、極めて重要です。

昭和四十八年(1973年)の発掘調査で発見された集落の一部、勝坂遺跡D区(16,591平方メートル)が、昭和四十九年に国の史跡として保存され、昭和五十五年・五十九年に指定地が追加され、D区の面積は19,921平方メートルとなっています。平成二十二年四月に竪穴住居二軒、敷石住居一軒を復元した史跡勝坂遺跡公園として開園しました。

D区の東方、谷を隔てた台地に位置する大山柏氏の調査地点、勝坂遺跡A区では平成十七年(2005年)の発掘調査で発見された集落の一部、磯部字中峰2097番1ほか3,797平方メートルが平成十八年一月二十六日に新たに追加指定され保存されました。


3)『史跡勝坂遺跡公園案内図』(園内掲示を修整)


4)公園南側から北側を望みます。照葉樹林と、くさはら広場が見えます。


5)前画面の右へ移動。くさはら広場の続きです。


6)前画面の右へ移動。縄文生活林の辺りです。


7)公園北側から南側を望みます。復元された竪穴住居が見えます。


8)『竪穴住居(1号住居)』説明板

縄文時代中期後葉(約4700年前)
復元住居、屋根:笹葺、柱材:クリ、床:ローム土

1号住居は埋甕と炉の位置関係から、入口が東側に向きます。屋根を支える柱は6本と考えられ、その配置は、炉とともに奥壁側に寄っています。また、炉のつくり替えや、柱穴、周溝が重なって複数あることから、住居の建替えが行われていたことがわかります。

1号住居は他の2軒の住居と重複しています。構築の順序は2号→1号→3号の順で、いずれも古い住居が埋まった後につくられています。勝坂遺跡D区の南集落には50軒もの住居が発見されています。竪穴住居「跡」の数からは、大規模に見える集落ですが、集落の長きにわたる継続期間のなかで、住居の構築・建替・廃絶を繰り返した結果としての集落「跡」であるのが実像です。


9)笹葺として復元された竪穴住居(1号住居)。


10)『竪穴住居(3号住居)』説明板

縄文時代中期後葉(約4700年前)
復元住居、屋根:土葺、柱材:クリ、床:ローム土

竪穴住居はその名のとおり、半地下式の住居です。竪穴の周りには掘り出された土が積まれ、屋根の垂木を打ち込んだり、外からの雨水の流入を防ぐ周堤があったと考えられています。3号住居の場合、竪穴の掘削で出された土の量は、10トンダンプで約4台分にもなります。

また、焼失した竪穴住居の調査事例や、中~北緯度の狩猟採集民による民族誌事例では、土葺の竪穴住居が認められ、周堤以外に土を屋根に葺いて利用したことも考えられます。

土葺住居は密閉された室内空間をつくる特徴から、非常に保温性に優れた住居形態といわれています。3号住居には、石囲いの炉があり、家を暖めていたことでしょう。一方で、雨漏りや湿気のため、湿潤な時期に住むのには適さず、寒い時期だけの「冬の家」とも考えられています。


11)土葺として復元された竪穴住居(3号住居)。


12)『廃絶住居の窪地』説明板

竪穴住居の耐用年数は数年から10数年程度と考えられています。住居が使われなくなり廃絶された時から、半地下式の竪穴住居は土で埋まり始め、やがて窪地を形成します。このように、縄文集落の景観は数軒程度の住居とともに、廃絶住居の窪地がいくつもあったとみられています。

竪穴住居を発掘調査していくと、住居の床面より高い位置の土の中から、土器や石器、石、炭化物などの遺物が大量に出土します。これらは、縄文人が日々の生活のなかで投げ捨てたもので、竪穴住居「跡」となった窪地は、ごみ捨て場として利用されていたようです。


13)廃絶住居の窪地。模型でしょうか。


14)『縄文生活林』説明板

縄文人は生い茂った森を切り開き、集落をつくります。集落周辺では木の実や山菜などの採集、建築材や木製品の木材の伐採、薪燃料の確保など、さまざまな生業活動が行われ、自然環境を開発し、改変していきます。その結果、集落周辺には、日当たりのよい空間と土壌が生まれ、縄文人にとって有用な植物が多く育つ「二次林」が生育していたとみられます。

食料としては栄養価に富み、保存性の高いオニグルミやクリを採集しています。市域ではクルミの実を模した土製垂飾やクルミ形の土器、炭化したオニグルミの殻なども出土しています。

建築材には、耐久性に優れたクリが非常に多く使われています。クリはうっそうとした深い森では多く生育できない木ですが、燃料材としても多用されていることから、集落周辺に多く生育し、人為的に管理されていたと考えられています。

木製品では、石斧柄にナラ類やスダジイ、丸木弓にイヌガヤ、飾り弓にはマユミやミズメを使い、サクラの樹皮が巻かれます。丸木舟にはカヤやスギ、クリ、舟をこぐ櫂にケヤキ、ヤマグワ、ケンポナシ、容器にはケヤキ、トチノキが使われることが多く、材の特性に合わせて木材が選択されていたと考えられています。


15)縄文生活林。公園が今年できたばかりなので、まだ若木です。


16)『埋没谷と縄文集落群』説明板

勝坂遺跡は、鳩川流域沿いや湧水の流れる谷戸沿いにつくられた縄文集落群です。D区には、北と南に集落がつくられており、その間には埋没谷が走っています。現況の地形でも谷状に窪んでいることがうかがえます。

谷部などの水が流れる場所は、ドングリを水でさらすアク抜きなどに利用されることがありますが、この埋没谷は調査の結果、集落があったころにはほとんど埋まっていたことがわかりました。また、勝坂遺跡A区には集落を画す埋没谷が確認されています。


17)埋没谷はどこでしょうか。これは『埋没谷』説明板の背後の草原です。


18)『敷石住居(30号住居)』説明板

縄文時代中期末葉(約4500年前)
レプリカ展示:型取・造形・塗装

縄文時代中期の終りごろになると、それまでの竪穴住居から構造が大きく変わり、柄鏡の形に石を敷いた住居(柄鏡形敷石住居)が登場します。この変化は、中期集落が遺跡の数・規模ともに減少していくことに歩調を合わせた現象です。その要因のひとつとして、気候の冷涼化という環境変動が考えられています。

30号住居は土層観察の結果、実際には柄鏡形に掘られた竪穴の中に、敷石されていたことがわかりました。張出部と主体部との接続部には、敷居のような石が置かれています。この出入口部の張出は、出入口の二重構造による、屋外の冷たい空気を入れない工夫とも考えられています。

縄文時代の住居出入口部には土器を埋めた「埋甕」がよく発見されます。埋甕は、縄文人の再生観念による風習とみられ、土器の中に、再生・復活を願うものを入れていたようです。なかには幼児甕棺として骨が出土した事例もあります。


19)レプリカ展示されている敷石住居(30号住居)。

この画面は、勝坂遺跡D区の北集落から南集落を見ていることになります。両集落の間に埋没谷が走っているということですが、その気になって見ると、横方向に谷状の窪みが認められるようにも思えます。


20)次に、公園(勝坂遺跡D区)の東方に位置する勝坂遺跡A区を訪ねます。


21)勝坂遺跡A区。


22)勝坂遺跡A区。


23)勝坂遺跡A区。


24)勝坂遺跡A区。


25)勝坂遺跡A区付近にある『勝坂式土器発見の地』説明板

「勝坂遺跡」は、縄文時代中期の典型的な集落跡であり、わが国における考古学上の代表的な遺跡でもあります。また、本遺跡から出土した「勝坂式土器」は、縄文時代中期を代表する土器として今日では全国的にその名が知られています。

この土器は。大正十五年(1926年)十月三日、考古学者大山柏氏が中村忠亮氏所有の畑地を発掘調査した際に、初めて発見したものです。大山氏が土器を発掘した場所は現在正確にはわかっていませんが、地図に示した場所の近辺と推定されます。

大山氏らの発掘調査はわずか一日だけでしたが、翌昭和二年(1927年)に刊行された調査報告書は、今日的にみましても精緻極まる大変豊かな内容をもつものでした。

その後、昭和三年(1928年)には、考古学者山内清男氏により時期区分の基準となる土器として、「勝坂式」という土器型式名称が与えられ、勝坂遺跡は勝坂式土器の標式遺跡となりました。

「勝坂式土器」は、今から約5000年前の縄文時代中期につくられたものですが、イラストの顔面把手のように彫刻的な把手や立体的な文様に大きな特徴がみられ、器形の雄大さや装飾の豪華さなど、その造形は他のいずれの土器型式にも例をみないものです。


26)勝坂遺跡の北西、鳩川分水路と相模川の合流点に、三段の滝展望広場があります。


27)三段の滝展望広場の入口付近から、相模川の下流を望みます。


28)三段の滝展望広場の入口付近から、相模川の上流を望みます。


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