鎌倉府の史跡碑(撮影:2010年10月27日)


1)鎌倉市浄明寺、金沢街道の泉水橋交差点から鶴岡八幡宮方面へ向かいます。


2)少し進むと、金沢街道の右側(北東側)に『足利公方邸旧跡』石碑が建っています。


3)鎌倉町青年会『足利公方邸旧蹟』石碑(鎌倉市浄明寺4丁目)

頼朝開府の初、足利義兼、居を此の地に卜して以来二百数十年間、子孫相嗣いで此の地に住す。

尊氏、覇を握りて京都に遷るの後、其の子義詮、二代将軍となりて京都の邸を嗣ぎ、義詮の弟基氏、関東管領[初代鎌倉公方]となりて兵馬の権を此の邸に執る。而して之を子孫に伝ふ。子孫、京都に比擬して公方と僭称す。

享徳四年(1455年)、公方成氏[五代鎌倉公方]、執事上杉憲忠[関東管領]との不和の事より下総古河に遷るに及びて、遂に永く廃虚となる。

【注記】
室町幕府は関東を統治するために鎌倉府と呼ばれる政庁を設置しました。幕府は、鎌倉府の首長を関東管領、補佐役を関東執事として任命しましたが、後代になると、関東管領の足利氏が鎌倉公方と称し、関東執事の上杉氏がこれに倣って自らを関東管領と称するようになりました。近年の慣例では、遡って、足利基氏を初代鎌倉公方、山内上杉家の祖である上杉憲顕を初代関東管領として数えます。


4)金沢街道を進み、浄妙寺の前を通り過ぎます。

浄妙寺は、鎌倉時代に足利義兼によって創建されました。室町時代に足利義満(室町幕府三代将軍)によって鎌倉五山第五位の位次が決定されます。


5)金沢街道から左(南)に折れて犬懸橋を渡り、小道を進みます。


6)十字路の角に『上杉朝宗及氏憲邸址』石碑が建っています。


7)鎌倉町青年団『上杉朝宗及氏憲邸址』石碑(鎌倉市浄明寺2丁目)

朝宗は足利氏満[二代鎌倉公方]・満兼[三代鎌倉公方]に歴任し、入道して禅助と号す。人称して犬懸の管領といふ。

其子氏憲、嗣て持氏[四代鎌倉公方]の執事[関東管領]となり、入道して禅秀と号す。然るに後、持氏と隙あり。応永二十三年(1416年)、氏憲は持氏の叔父満隆等と謀り、満仲[満隆の養子で持氏の弟]を奉じて兵を起せしも遂に敗れ、翌年(1417年)正月、一味と共に雪ノ下の鶴岡別当坊に自尽す。此所は即ち其の邸なり。


8)金沢街道に戻り、杉本観音の前を通り過ぎます。


9)金沢街道から右(北)に折れ、大塔宮参道を経由して、瑞泉寺へ向かいます。


10)瑞泉寺の総門に出ました。

瑞泉寺は、鎌倉幕府重臣の二階堂道蘊が夢窓疎石を開山として創建した寺です。初代鎌倉公方の足利基氏が中興し、以後、鎌倉公方家の菩提寺となりました。関東十刹に名をつらね、疎石派の拠点として関東禅林に重きをなしますが、四代鎌倉公方の足利持氏による永享の乱で衰亡しました。


11)総門の奥から、右(南)に向かう小道に入ります。


12)個人のお宅の庭に、『永安寺址』石碑が建っています。


13)鎌倉町青年団『永安寺址』石碑(鎌倉市二階堂)

永安寺は二階堂谷に属す。関東官領足利氏満[二代鎌倉公方]の開基にして、其の開山は曇芳和尚なり。和尚、名は周応、夢想国師の法嗣にして、建長寺瑞林庵の始祖たり。氏満、応永五年(1398年)十一月四日を以て卒す。其法号を永安寺壁山全公と称す。寺号、此に基く。

氏満の孫持氏[四代鎌倉公方]、時の将軍義教と隙あり。兵敗れ、勢窮り、此寺に篭居して自殺す。時に永亨十一年(1439年)二月十日なり。此日、寺観又兵火に罹りて廃滅に帰す。此所は実に其址なり。


14)鶴岡八幡宮に立ち寄ります。


15)鶴岡八幡宮の本宮(上宮)。大銀杏が無くて物寂しい感じです。

四代鎌倉公方足利持氏との抗争に敗れた犬懸上杉氏憲(禅秀)が一味と共に自尽した雪ノ下の鶴岡別当坊は、鶴岡八幡宮境内の北西に置かれていました。

北条氏康を小田原城に攻囲した長尾景虎(上杉謙信)は、鎌倉に撤兵し、鶴岡八幡宮の社前で、上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を相続しました。


16)鶴岡八幡宮から、寿福寺・英勝寺方面へ向かいます。


17)JR横須賀線の扇ケ谷踏切から、寿福寺踏切を望みます。


18)寿福寺踏切。


19)踏切から線路の東側を北に進むと、『扇谷上杉管領屋敷迹』石碑が建っています。


20)鎌倉町青年団『扇谷上杉管領屋敷迹』石碑(鎌倉市扇ガ谷2丁目)

内大臣藤原高藤十三代の裔に重房あり。宗尊親王に従ひて鎌倉に下り、食邑を丹波国上杉荘に賜りて、始めて上杉氏を称せるか。其の曽孫憲顕[重房-頼重-憲房-憲顕、山内上杉家の祖]、管領基氏[初代鎌倉公方]の執事[初代関東管領]と為りてより一族勢力を関東に占む。門葉数家。重房五世の孫顕定[重房-頼重-重顕-朝定-顕定]、扇谷家を創む。

文明の交(1469~1487年)、扇谷家六代の主定正、賢臣太田道灌を用ひて家声を揚ぐるや、世に宗家山内と共に「両上杉」又は「両管領」と称す。此の地、即ち其の邸址なり。

21)線路の反対側(西側)に、英勝寺が見えます。


22)英勝寺の山門の横に、『太田道灌邸旧蹟』石碑が建っています。


23)鎌倉町青年会『太田道灌邸旧蹟』石碑(鎌倉市扇ガ谷1丁目)

此の地は武略・文藻兼ね備へ、恭くも「武蔵野は/萱原の野と/聞きしかど/かかる言葉の/花もあるかな」てふ叡感にさえ預りたる道灌太田持資が、江戸築城前の邸址なり。

寛永十一年(1634年)、今の英勝寺と為る。其の創立者、水戸藩祖頼房の准母英勝院は、道灌の嫡流太田康資の女なるより、晩年将軍家光より特に此の地を授りて之に住するに至れるなり。

「孤鞍雨を衝いて茅茨を叩く/少女為に遣る花一枝」の詩趣ある逸話は、道灌が壮年猶此に在りし日に於て演ぜられし所のものなり。


24)英勝寺の前の、線路沿いの道です。


講座46「鎌倉公方と関東管領」もご参照ください。


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