藤沢敵御方供養塔(撮影:2010年11月10日)


1)藤沢市西富。神奈川県道30号線沿いに遊行寺(清浄光寺)の東門があります。


2)東門を入って左側に「藤沢敵御方供養塔」が建っています。


3)供養塔の上部に「南無阿弥陀佛」の文字が見えます。


4)藤沢市教育委員会『国指定史跡・藤沢敵御方供養塔』説明板

この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永二十五年(1418年)に造立されたものです。

基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は磨滅していて読みとりにくいのですが、次のように解読・解釈されています。

南無阿弥陀佛/自應永廿三年十月六日兵乱至同廿四年/於在々所々敵御方為箭刀水火落命/人畜亡魂皆悉往生浄土故也/過此塔婆之前僧俗可有十念者也/應永廿五年十月六日

応永二十三年(1416年)十月六日からの戦乱は同二十四年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢)・刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過ぎる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。

この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年一月に禅秀らの敗北自害で落着しました。

銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。

敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長四年(1599年)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(敵)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んでいます。

【付記:銘文の読み下し試案です】
南無阿弥陀仏。応永二十三年十月六日よりの兵乱、同二十四年に至る。在々所々に於いて敵御方、箭刀水火のために命を落とす。人畜の亡魂、皆ことごとく浄土に往生の故なり。この塔婆の前を過ぎる僧俗、十念有るべきものなり。応永二十五年十月六日


5)東門を入って右側に並ぶ六地蔵。江戸時代の「酒井忠重逆修六地蔵」らしいです。


6)六地蔵から奥に進むと、突き当りに長生院小栗堂があります。


●遊行寺『小栗判官照手姫の墓』

東門から右手、本堂わきの細い道(通称:車坂)をたどると長生院というお寺があります。小栗堂とも言い、浄瑠璃で名高い小栗判官・照手姫ゆかりのお寺です。

応永二十九年(1422年)常陸小栗の城主、判官満重が、足利持氏に攻められて落城、その子判官助重が、家臣十名と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に毒殺されかけたことがあります。このとき妓女照手が助重らを逃がし、一行は遊行上人に助けられました。その後、助重は家名を再興し、照手を妻に迎えました。

助重の死後、照手は髪を落とし長生尼と名のり、助重と家臣十名の墓を守り、余生を長生院で過ごしたとされています。

【注記】
原文では「家臣十一名」となっていますが、境内掲示および通例に従って「家臣十名」に改めました。


7)長生院小栗堂。


8)長生院小栗堂。堂の北側に「小栗判官照手姫の墓」があります。


9)『照手姫之墓』標札。


10)照手姫の石塔。


11)『小栗判官公並に十勇士之墓』標札。


12)小栗判官の石塔。


●ウィキペディア『小栗満重の乱』より

室町時代中期に常陸国真壁郡小栗を支配していた領主に小栗満重という武将がいた。この満重は応永二十三年(1416年)の上杉禅秀の乱で禅秀に味方したため、戦後に鎌倉公方の足利持氏から所領の一部を没収されていた。

これを恨んだ満重は、応永二十九年(1422年)に宇都宮時綱らと共謀して反乱を起こし、一時は下総国の結城城を奪うなどした。しかし反乱の長期化・強大化を懸念した持氏が応永三十年(1423年)に大軍を率いて自ら出陣すると、反乱軍はたちまち崩壊して満重も居城の小栗城で自刃して果てた。

満重は歴史上の人物より、伝説上の人物として有名である。江戸時代には人形浄瑠璃や芝居などで有名になった。

小栗落城後、満重は実は死なず、脱出して落ち延びたという。そのとき、相模国の旧知である横山大膳という人物を頼った。このとき、横山の娘・照手姫と恋仲になった。ところが横山は小栗の首を差し出して褒美を得ることを目論んでいた。そのため、宴会を開いて酒を勧めたのだが、これが毒酒だった。小栗とその部下は何の疑いも無く飲んでしまい、そして命を落とし、持っていた金品も略奪された。

ところが満重だけは虫の息ながら生きており、部下と共に遺棄された場所で僧侶に助けられて手厚い看病を受けた。特に熊野権現の霊験と温泉の効果があったという。恋仲になっていた照手姫は父の所業に悲嘆して家を出たが、追っ手に捕らえられて身ぐるみ剥がされた上で追放された。そして下女として働くことになる。

本復を果たした満重は常陸国に戻って再起を果たし、裏切った横山を討ち、下女になっていた照手姫を見つけ出して約束どおり夫婦になった。そして幸せに暮らしたという。

史実では、足利持氏が永享の乱を起こして滅んだ後、永享十二年(1440年)に結城氏朝が持氏の遺児(足利春王丸・足利安王丸)を擁して挙兵し、結城合戦を起こした。小栗満重の子とも弟ともされる小栗助重は乱の平定に武功を立て、旧領への復帰を許されたが、康正元年(1455年)に持氏の遺児・足利成氏の攻撃を受けて再び滅ぼされたという。


前編「藤沢山清浄光寺(遊行寺)」もご参照ください。


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