伝上杉憲方墓(撮影:2010年11月16日)


1)鎌倉の由比ヶ浜から、極楽寺坂(画面中央の切通し)を遠望します。


2)極楽寺門前の桜橋から見た、江ノ電の極楽寺駅です。


3)極楽寺門前の桜橋から見た、伝上杉憲方墓の入口です。


4)『上杉憲方墓』の標柱。


5)神奈川県教育委員会『史跡・伝上杉憲方墓』説明板

上杉憲方は憲顕の子である。天授五年(1379年)、美濃の土岐頼康の叛乱を討つため出陣したが、三島で在陣中、鎌倉御所・足利氏満を補佐する関東管領に任ぜられ、鎌倉に帰り山内に住んで山内氏を称した。

応永元年(1394年)十月、六十才で亡くなり、法名は明月院殿天樹道合という。

墓地には上杉憲方墓と伝えられる安山岩製の七層塔のほか、疑灰岩製の五層塔一基・五輪塔三基、安山岩製の五輪塔多数がある。七層塔は鎌倉末期の作と推定される。塔身には仏像を刻み、基台には枠をめぐらし格挟間を刻んでおり、すぐれたものである。


6)上杉憲方墓と伝えられる安山岩製の七層塔。


7)同上の七層塔。


8)同上の七層塔。


9)同上の七層塔。塔身の仏像と、基台の枠および格挟間が見えます。


10)塔身の仏像。


11)疑灰岩製の五層塔。


12)同上の五層塔。


13)同上の五層塔。


14)七層塔と五層塔の間にある、安山岩製の五輪塔。


15)疑灰岩製の五輪塔三基のうち、左側の石塔。


16)疑灰岩製の五輪塔三基のうち、中央の石塔。


17)疑灰岩製の五輪塔三基のうち、右側の石塔。


18)多数の安山岩製の五輪塔のうち、二基の石塔。


19)極楽寺切通しを東へ進み、成就院に立ち寄ります。


20)成就院の西結界門。かっての極楽寺坂は、成就院と同じ高さがあったとされます。


21)成就院本殿前から、由比ヶ浜を望みます。かっての極楽寺坂の峠の眺望です。


●ウィキペディア『上杉憲方』より

上杉憲方(うえすぎのりかた)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。建武二年(1335年)に生誕。上杉憲顕(初代関東管領・山内上杉氏の始祖)の子で、能憲・憲将・憲賢・憲春・憲栄・憲英は兄弟。憲孝・房方・憲定・憲重の父。

永和二年(1376年)に病床にあった兄・能憲(二代関東管領)から所帯等を譲られ、永和四年(1378年)四月の能憲の死の直前には兄・憲春が務めていた上野守護職や憲春の所領も憲方が知行すべき分として譲られた。能憲の死後、関東管領には憲春が任じられたが、山内上杉家の家督は憲方だった。

約一年後の康暦元年(1379年)三月七日、憲春は自害した。康暦の政変に乗じて攻め上がろうとする足利氏満(二代鎌倉公方)に対する諌死だったという。同年三月二十一日頃に憲方は関東軍の大将として派遣されたが、上洛はせずに伊豆国三島に留まった。同年四月十五日に関東管領に任じられ、二十八日には鎌倉へ戻った。五月には憲春が維持していた上野守護職も憲方に安堵された。

永徳二年(1382年)一月に管領職から退いたが、同年六月に再任されている。

武将としての器量に優れ、鎌倉公方の氏満を補佐しながら小山義政の反乱とその子・小山若犬丸の反乱鎮圧に功を挙げた。それらの功績により上野国や武蔵国、伊豆国、安房国、下野国の守護職を与えられている。

明徳三年(1392年)四月二十二日、老齢と病身を理由に管領職から退いた。応永元年(1394年)十月二十四日に死去。享年六十。墓所は自身が鎌倉に建立した明月院。法号は明月院天樹道合。


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