新井城と油壺湾(撮影:2010年12月8日)


1)三浦市三崎町。浜諸磯の諸磯港から、油壺の新井城址を望みます。


2)諸磯湾の奥に移動し、新井城址を望みます。


3)諸磯湾の奥から、富士山を望みます。


4)油壺湾の奥に移動します。油壺ヨットハーバーがあります。


5)油壺ヨットハーバーから、新井城址(画面右奥)を望みます。


6)新井城址と油壺湾。


7)油壺バス停に掲示されている三浦市『油壺観光マップ』(部分、下が北です)。


8)東京大学臨海実験所の方向に進むと、途中に『新井城址』説明板があります。


9)説明板後方の東京大学地震研究所敷地内に、空堀の遺構のようなものが見えます。


●三浦市『新井城址』説明板

三浦一族滅亡の地、新井城は、面積約128ヘクタールの天険をそのまま利用した自然の要害でした。

すなわち、相模湾に突出したこの小半島は、小網代湾と、油壺湾にはさまれて、三方がいずれも海で、しかも切り立った断崖であり、陸地に通ずる路は、北方約3キロメートルの大手の引橋で、この橋を切って落せばどこからも攻めこまれないようになっていました。

引橋は後に地名になりましたが、ここで北条勢は、橋を引かれて渡ることが出来ず、三浦勢に時を稼がれています。

現在は、関東大地震による隆起で、往時の面影はうすらいでいますが、当時としては大軍をもってしても攻めがたく、わずかの手兵で三年間もちこたえたのですから、三浦一族の執念もさることながら、城としても、すぐれた構えであったのでしょう。

いずれにしても、室町期の居館としての新井城の名残りは、本丸を中心にめぐらされている空堀に往時を偲ぶことが出来ます。


10)田辺大愚句碑と、『かながわの景勝50選・油壺湾』石碑。


11)『かながわの景勝50選・油壺湾』石碑の位置から、油壺湾を望みます。


●三浦市『油壺湾』説明板

油壺の名のいわれは、永正十三年(1516年)、新井城(今の油壺一帯)を最後の居城として立て篭もった三浦一族が北条早雲の大軍を相手に、三年間にわたって奮戦しましたが、空しくついに全滅し、一族の将・三浦道寸義同(どうすん・よしあつ)をはじめその子・荒次郎義意(よしおき)は自刃、他の将兵も討死、または油壺湾へ投身したと伝えられ、そのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったので、後世「油壺」といわれるようになりました。

北条五代記には、三浦一族全滅の模様を次のように記しています。

「今も七月十一日には毎年新井の城に雲霧おおいて日の光も定かならず。丑寅の方と未申の方より雷(いなずま)かがやき出て両方光入乱れ、風猛火を吹き上げ、光のなかに異形異類の物有りて干戈(かんか)をみたし、虚空に兵馬馳け散り乱れ、天地をひびかし戦う有様、おそろしきと言うばかりなり云々」


12)ウォーキングコースを進んで、荒井浜に出ます。


13)荒井浜と東京大学臨海実験所。


14)荒井浜。前画面の右になります。


15)諸磯埼灯台と伊豆大島。前画面の右になります。


16)岬の北側に回り込んで、胴網海岸付近から小網代湾の対岸を望みます。


17)胴網海岸付近から、小網代湾のシーボニアマリーナを望みます。


18)胴網海岸。


19)胴網海岸に臨む高台に、三浦道寸の墓があります。


20)『従四位下・陸奥守道寸義同公之墓』墓碑。


●三浦市『三浦道寸の墓』説明板

新井城主・三浦道寸義同は鎌倉以来坂東武門の名族である三浦一族最後の当主となりました。三浦一族は始祖・為通にはじまり鎌倉時代には北条氏とともに幕府を二分して覇権を争ったことはよく知られています。この間、和田の乱(和田義盛滅亡)、宝治合戦(三浦泰村滅亡)などいく度か興亡を繰り返し450年の後、奇しくも同じ北条を唱える伊勢新九郎(北条早雲)と戦い、戦国騒乱の露と消えました。

永正九年(1512年)、北条早雲は岡崎城(平塚市伊勢原市両市にまたぐ)から住吉城(逗子市)などにつづいて三浦氏を新井城(油壺)に攻めました。

そして日本籠城史でもまれな凄惨な攻防は三年にわたり、永正十三年七月十一日、義同以下城兵ことごとく決戦にのぞみ、ここに、さしもの三浦氏はその歴史を閉じました。

(義同辞世の歌)
討つものも/討たるるものも/土器(かわらけ)よ/砕けて後は/もとの土くれ


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