大王陵古墳群


■巨大前方後円墳の時代

3世紀の後半、奈良盆地に前代よりも格段に規模を増した大王陵と見られる前方後円墳が出現します。この時期にヤマト王権が倭の統一政権として確立したと考えられます。4世紀末から6世紀前半にかけては河内平野に巨大前方後円墳古墳が築造されます。朝鮮半島への進出が行われ、その後、倭の五王が中国に使者を遣わした時代にあたります。6世紀の終わりに前方後円墳の築造は終焉します。ヤマト王権がより強力な国家へと成長したことの現れだと解されています。


■大王陵古墳群

大王陵とされる前方後円墳は、奈良盆地から河内平野へ広がるヤマト王権の直轄地の中で特定の4つの地区に群集しています。古墳時代前期の奈良盆地における柳本古墳群と佐紀盾列古墳群、そして、古墳時代中期の河内平野における古市古墳群と百舌鳥古墳群です。


■天皇陵一覧

宮内庁指定の天皇陵として前方後円墳が現れるのは、第9代開化天皇から第30代敏達天皇までの約300年間です。その大多数が時代の推移に応じて4つの古墳群のいずれかに属しています。


■古墳時代前期

弥生時代末期には九州北部を中心とする政治勢力と奈良盆地南東部を中心とする政治勢力が拮抗していました。奈良盆地の勢力が吉備政権などと連合して、3世紀半ばまでにヤマト王権が成立しました。この時期に奈良盆地を中心に大型の前方後円墳が登場してきます。ヤマト王権の支配拡大の過程では、日本武尊の説話に見られるような大小の勢力や種族との衝突があったと考えられます。


■柳本古墳群(国土地理院航空写真)

奈良盆地南東部の柳本古墳群には、第10代崇神天皇と第12代景行天皇の陵墓があります。この古墳群の南西に位置する箸墓古墳は最古級の大型前方後円墳です。第7代孝霊天皇の皇女で崇神天皇の巫女として活躍した倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓として宮内庁により管理されています。築造年代は卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が一般的になっており、箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性が高くなっています。


■佐紀盾列古墳群(国土地理院航空写真)

奈良盆地北部の佐紀丘陵南斜面には、第13代成務天皇、神功皇后(第14代仲哀天皇の后、第15代応神天皇の母)、磐之媛(第16代仁徳天皇の后、嫉妬により別居)などの陵墓があります。時代をさかのぼって第11代垂仁天皇の陵墓はこの古墳群の南に位置しています。


■古墳時代中期

4世紀末から5世紀にかけて倭軍が朝鮮半島の百済と新羅を臣民とし、高句麗と戦ったことが高句麗広開土王碑文にみえます。神功皇后の説話とイメージが重なります。5世紀になると中国の史書に倭王に関する記事が散見されるようになります。倭の五王として讃・珍・済・興・武の順序で登場しますが、古事記の没年干支を適用すると、讃は仁徳、珍は反正、済は允恭、興は安康、武は雄略の年代に対応します。


■古市古墳群(国土地理院航空写真)

大阪府南東部の羽曳野市と藤井寺市を中心に広がる古墳群です。第15代応神天皇の巨大前方後円墳を盟主として、祖父の日本武尊(白鳥陵)、父の第14代仲哀天皇、后の仲津姫(第16代仁徳天皇の母)、孫の第19代允恭天皇、さらにその子孫たちの陵墓が周りを囲んでいます。


■百舌鳥古墳群(国土地理院航空写真)

第16代仁徳天皇とその子である第17代履中天皇および第18代反正天皇の陵墓は、古市古墳群から少し西に離れて、大阪湾に面した古代の海岸線に沿って要塞のように配置されています。


■古墳時代後期

武烈天皇の死で皇統が絶たれ、大伴金村が507年に応神天皇の五代の子孫である継体天皇を擁立しました。その子である安閑、宣化、欽明の各王朝を通じて国家機構の整備が進められました。7世紀になると天皇陵は大陸の影響を受けて大型の方墳や円墳へと変化します。さらに、大化の改新を経て、律令制導入期の7世紀中頃から8世紀初頭まで天皇陵には八角墳が採用されるようになります。


■継体天皇陵(国土地理院航空写真)

大阪府茨木市の太田茶臼山古墳が宮内庁により第26代継体天皇の陵墓に指定されています。しかし、所在地および考古学的に推定される築造年代からすると、その東に位置する今城塚古墳(大阪府高槻市)のほうが文献に記される継体天皇陵としての条件に合致する上、当該期の古墳の中では隔絶した規模を持っており、こちらこそが真の継体天皇陵と考えられています。


■欽明天皇陵(国土地理院航空写真)

奈良県高市郡明日香村の平田梅山古墳が宮内庁により第29代欽明天皇の陵墓に指定されています。しかし、奈良県下では最大、日本全国でも6位の規模を持つ見瀬丸山古墳(橿原市)のほうが真の欽明天皇陵として有力視されています。見瀬丸山古墳は古くから円墳と見なされてきましたが、戦後、航空写真から前方後円墳であることが確認されました。江戸時代末の天皇陵比定作業において天武天皇と持統天皇の合同陵であると誤認されましたが、鎌倉時代の記録が明治時代に発見され、合同陵指定は明日香村の野口王墓古墳(八角墳)に移されました。


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