一条朝の四才女


■四才女

紫式部の作とされる『紫式部日記』には、和泉式部、赤染衛門、清少納言の三人を並べて批評した有名な段落があります。この三人に張本人の紫式部を加えた「四才女」について見ていきたいと思います。

図は、バーク・コレクション所蔵の土佐光起筆『源氏物語絵巻・朝顔』の部分です。


■主家の系譜

藤原兼家は策略により花山天皇を退位させ、娘の生んだ一条天皇を即位させます。兼家の嫡男である道隆は、娘の定子を甥である一条天皇の女御として入内させ、後に中宮とします。

兼家が死ぬと道隆が後を継いで関白となりますが、五年ほどで病に倒れます。道隆は嫡男の伊周を後任の関白に願いますが、天皇から許されず、世を去ります。

伊周との政争に勝って朝政の実権を握ったのは、道隆の弟の道長です。中宮定子を皇后に押し上げ、娘の彰子を入内させて中宮とします。定子はまもなく世を去ります。


■時代対比

清少納言は、正暦四年(993年、27歳位)の冬頃から中宮定子(16歳位)に仕え、長保二年(1000年、34歳位)に定子が亡くなってまもなく、宮仕えを辞めたとされます。

和泉式部は、寛弘五年(1008年、30歳位)から中宮彰子(20歳位)に出仕しました。四十歳を過ぎた頃、藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下りました。

紫式部は、寛弘二年(1005年、26歳位)の末から中宮彰子(17歳位)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも同八年(1011年、32歳位)まで続けたとされます。


■清少納言

赤染衛門は『栄花物語』の一節で清少納言の様子を敬意をもって記しています。しかし、紫式部にとっては、主家の政敵に仕え、漢詩文の知識をちらつかせ、王朝的優雅さを気取る『枕草子』の著者は、どこか自分と似ているだけに、目障りなライバルとしてこき下ろさずには気がすまない存在だったようです。

【紫式部日記】

清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。

【解釈】

清少納言ときたら、得意顔でいやな人。知識をひけらかして漢詩文を書きまくっているけど、よく見ると稚拙なところがいっぱい。こんなふうに、人とは違うと思い込んでいい気になっている人は、化けの皮がはがれて、痛い目を見ること間違いなし。それに、エレガントさを気取っているけど、そんな人は、白けて退屈なときでも感動的なことを探そうとして、頓珍漢になるものよ。頓珍漢になったあげくに、行き着く果ては知れているわ。

図は、東京国立博物館所蔵の狩野探幽筆『清少納言』です。


■赤染衛門

中宮定子の実家に仕える赤染衛門は、紫式部にとってお局様のような存在で、内心どう思っていても悪口など書けなかったでしょう。なお、赤染衛門が『栄花物語』を著したのは『紫式部日記』より後のこととされています。

【紫式部日記】

丹波守の北の方をば、宮、殿などのわたりには、匡衡衛門とぞ言ひはべる。ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとてよろづのことにつけて詠み散らさねど、聞こえたるかぎりは、はかなき折節のことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。ややもせば、腰はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えも言はぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、憎くもいとほしくもおぼえはべるわざなり。

【解釈】

丹波守大江匡衡の奥方を、彰子様や道長様の所では「匡衡衛門」と呼んでいます。特別高貴な生まれではありませんが、とても気品のある方です。歌人を自負して何かにつけて詠みまくるということはされませんが、世に知られている歌はどれも、何気ない折節の歌でさえ、惚れ惚れとしてしまいます。この方と比べると、上の句と下の句がちぐはぐなみっともない歌を詠んで得意になっている人が、憎らしくも可哀想にも思えてきます。

図は、東京国立博物館所蔵の狩野探幽筆『右大将道綱母』です。赤染衛門の図が見つからないので、代役をお願いしました。


■和泉式部

和泉式部は、『和泉式部日記』に綴られた不倫関係をはじめ、いくつかのスキャンダルで有名です。紫式部は賢女ぶって、その方面も一応非難しています。非常に多作で屈指の勅撰集入選数を誇る和泉式部の和歌に対しては「白痴美人」と揶揄しています。理詰めの紫式部にはうらやましい才能だったのかもしれません。

【紫式部日記】

和泉式部といふ人こそ、おもしろう書き交はしける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわりまことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。

【解釈】

和泉式部という人は、手紙のやりとりが絶妙だけれど、倫理的には感心しませんね。気軽に走り書きした恋文の何気ない言葉にも色香が漂うといった才覚があります。和歌はとても上手です。古典の知識や歌の理論に関してはプロの歌人のレベルとは言えませんが、口にまかせて出てくる言葉に、かならず興のある一節が見られます。だからといって、和泉は他の人の詠んだ歌を理屈をこねて批判しているけど、そこまで理解しているとは思えません。口に歌を詠まれているのが見え見えといったところでしょうか。尊敬するほどの歌人とは思いませんね。

図は、東京国立博物館所蔵の狩野探幽筆『和泉式部』です。


■紫式部

紫式部にとって漢詩文の知識は文学活動のバックボーンであり、誇りでもありながら、冷やかしの対象になるという脅迫観念が存在したようです。清少納言を「賢しだち」と評した紫式部自身が、実は、「才がる」と評されてコンプレックスを持っていました。

【紫式部日記】

内裏の上の『源氏の物語』、人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに、「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」と、のたまはせけるを、左衛門の内侍といふ人、ふと推しはかりに、「いみじうなむ才がる」と殿上人などに言ひ散らして、「日本紀の御局」とぞつけたりける、いとをかしくぞはべる。この古里の女の前にてだにつつみはべるものを、さる所にて才さかし出ではべらむよ。

【解釈】

一条天皇様が『源氏物語』を人に読ませて聞かれ、「この作者は、日本書紀を読んだにちがいない。ほんとうに学識がある」と、言われました。さすが、天皇様。私って、すごいでしょ。でも、左衛門の内侍という人がこれを聞きかじって、「はなはだしく学識をひけらかす」と殿上人などに言いふらし、「日本書紀のお局様」とあだ名をつけました。理不尽なことですね。実家の侍女の前でも隠しているのに、宮中のような所で学識をひけらかしたりはしませんよ。

図は、東京国立博物館所蔵の狩野探幽筆『紫式部』です。


【グレゴリウス講座について】

当サイトの「グレゴリウス講座」は、関心を持ったテーマをミニプレゼンテーションにまとめることを試みています。内容の妥当性を心がけていますが、素人の判断の域を出ませんので、ご了承ください。


◇HOME:グレゴリウス講座