相模国府


■相模国の成立

古代の律令国家は、地方を統治するために国・郡に分け、国府・郡衙を置きました。相模国は、大化の改新(645年)の後、相模川流域の相武 (さがむ) 国造の領域と、酒匂川流域の師長(しなが)国造の領域を併合して成立しました。

相模国の国府所在地は、いまだに特定されていません。国府の候補地は四箇所あります。『和名類聚抄』および『拾芥抄』では、大住(おおすみ)郡とあります。現在の平塚市で関連の遺跡が発掘されました。『伊呂波字類抄』では、国府を余綾(よろぎ)郡とします。現在の大磯町と推定されます。この二箇所のほかに、国分寺があった海老名市付近に初期の国府があったとする説、現在の小田原市にある千代廃寺を初期の国分寺とみなしその付近に初期の国府があったとする説もあります。


■平塚市『相模国府を探る』

相模国府の所在地はどこにあったのでしょうか。文献では十二世紀中頃までは大住(おおすみ)郡に、以後は余綾(よろぎ)郡に移転したことが明らかにされています。しかし、考古学的には未だに国庁(国衙の中心施設)は発見されていませんので、多くの見解が発表されてきました。近年までの主流の考え方が、海老名市にある国分寺の関係から海老名市→平塚市→大磯町と三遷した説です。一方、小田原の千代廃寺との関係から小田原市→平塚市→大磯町の説もあります。大住国府が平塚以外に所在したとする説も幾つかありましたが、昭和五十九年の四之宮下郷遺跡群の調査成果によりほぼ確定されるようになりました。同様に、初期国府に関しても新たな資料が平塚で発見されました。「国厨」の墨書土器は少なくとも大住国府が奈良時代後半まで遡ることができるものですので、新たに平塚市→大磯町の見解が再浮上してきました。


■海老名市『相模国分寺跡』

相模国分寺跡は、海老名駅の東側約500メートルの台地上にあります。歴史公園として整備・公開され、一部伽藍の基壇や平面形が復元されています。また、国分寺の北側約500メートルのところには国分尼寺跡があります。

全国に国分寺が造られる経緯となったのは、天平十三年(741年)の聖武天皇の詔によります。相模国分寺もこの詔を受けて建立され、発掘調査の所見から、八世紀中頃には創建されていたと考えられます。

国分寺創建当時、相模国の国府は今の平塚市にあったと考えられます。通常、国分寺は国府の近くに建てられますが、相模国では当初から国府と離れたところに建てられたと考えられます。これは、関東地方の寺院建築に深く関わった壬生氏が高座郡周辺を拠点にしていたためという見方もあります。


■大住国府の情景

写真は、相模川にかかる湘南銀河大橋から、平塚市四之宮の前鳥神社の森と、相模国の霊峰大山を望みます。


■大住から余綾へ

写真は、湘南銀河大橋から、大磯町の高麗山を望みます。十二世紀の中ごろ、相模国府は山の反対側、相模湾を望む高台に移転したとされます。


■余綾国府の情景

写真は、大磯町国府本郷にある神揃山の頂上付近です。この高台に、相模国の国庁が置かれたとされます。


■国司巡拝の神社

中央政府より任命された国司は、任国に着くと、先ず最初に神拝または巡拝といってその国の有力神社を参拝して回る制度がありました。この回る順番によって後に、一之宮、二之宮と称されるようになります。

しかし、国司の巡拝は大変な日数と費用と人員を要するため、時代が経つにつれて、巡拝する神社の分霊を国府近くの神社に合せ祀る慣いが起り、これが総社の起源となりました。

国司巡拝の神社の由緒をたずねることによって、律令時代以前にまで遡って、相模国の情景を偲ぶことができるのではないでしょうか。さらに、これらの神社周辺には古墳が多く見られ、祭神や古代相模国の豪族、中央権力との関係が想起されます。


■国司巡拝の神社

国府が大住にあった時代には、一之宮から四之宮までの四社と、一国一社の八幡宮である平塚八幡宮が巡拝の対象であり、四之宮もしくは平塚八幡宮が総社の役割を果たしたと考えられます。国府が余綾に移転すると、国庁の近くにあった柳田大明神が総社に選定され、五社の分霊が合祀されて、六所神社となりました。

鎌倉時代になると、鎌倉に鶴岡八幡宮が建立され、一之宮と同格の扱いを受けるようになります。


■相模国一之宮「寒川神社」(神奈川県高座郡寒川町宮山)

寒川神社は、寒川比古命・寒川比女命の二座を祀ります。この地の有力な豪族が造営したものと推定されていますが、創祀年代は不明です。雄略天皇の時代に奉幣、また神亀四年(727年)に社殿建立と伝える記録があります。初めての公の記録は、仁明天皇承和十三年(846年)に神階従五位下を授けられたとの『続日本後紀』の記録です。『延喜式』では、相模国十三社のうち、唯一の名神大社とされています。


■相模国二之宮「川勾神社」(神奈川県中郡二宮町山西)

大和朝廷が二宮のあたりを師長(しなが)国とした時代に、第十一代垂仁天皇の勅命が奉じられて川勾(かわわ)神社が創られたとされます。その頃、川勾神社は師長の一之宮でした。しかしその後、相模国ができたときには、その地位を寒川神社に譲ったといわれています。川勾神社には、このあたりを開拓した級長津彦命(しなつひこのみこと)・級長津姫命(しなつひめのみこと)を主神として、ほかに三神が祀られています。


■相模国三宮「比々多神社」(神奈川県伊勢原市三ノ宮)

比々多(ひびた)神社は、初代神武天皇六年、相模国の霊峰大山を神体山とし、豊国主尊を日本国霊として祀ったことに始まるとされます。天平十五年(743年)、竹内宿祢の裔孫である紀朝臣益麿を初代宮司に迎え、同時に第四十五代聖武天皇より荘園を賜ります。


■相模国四之宮「前鳥神社」(神奈川県平塚市四之宮)

前鳥(埼取、さきとり)は平安以前の古い地名で、相模川の河原に接する自然堤防南端の地形を形容しているとされます。この地に奈良時代以前、畿内から菟道稚郎子命(うぢのわきいらつこのみこと)を氏の上とする氏人が移り住み、命の遺徳を偲び、清浄な地に祀ったのが前鳥神社です。


■相模国一社八幡宮「平塚八幡宮」(神奈川県平塚市浅間町)

平穏な日々が続いていた相武国に仁徳天皇の六十八年に大地震があり、里人の苦しみの様を聞いた天皇が国土安穏を祈願して応神天皇の神霊を祀ったのが平塚八幡宮の始まりです。推古天皇の時代にも大地震があり、人々を案じた天皇は八幡宮に「鎮地大神」の宸筆を賜り、宝剣「天晴彦」を奉納しました。


■相模国総社「六所神社」(神奈川県中郡大磯町国府本郷)

第十代崇神天皇の頃、出雲地方からこの地に氏族が移住して開墾しました。そして、この地を柳田郷(やなぎたごう)と名付け、氏族の祖神である櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)、大己貴尊(おおなむちのみこと)を「柳田大明神」として祀りました。平安時代に相模の国府が柳田郷に遷されると、五社の分霊が柳田大明神に合祀されて総社「六所神社」となりました。


■神揃山の神体石

毎年五月五日、六社の神輿が余綾国府の故地である大磯に集まり、国家安泰・五穀豊穣・諸産業の繁栄を祈念する国府祭(こうのまち)が開催されます。その斎場の一つである神揃山には、六社の神体石が鎮座しています。


このページは、グレゴリウス写真館「相模国府」シリーズのプレゼンテーションとして作成しました。

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