カノッサの屈辱


■叙任権闘争

神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世は、北イタリアへの勢力拡大をはかって、子飼いの司祭たちをミラノ大司教・フェルモ司教・スポレト司教などに次々と任命していきました。ローマ教皇グレゴリウス七世は、司教の叙任権が王でなく教会にあることを通達し、対立司教の擁立中止を求めましたが、ハインリヒ四世は聞き入れません。

ハインリヒ四世は、1076年1月に独自の教会会議を開いて教皇の廃位を宣言します。これに対し教皇も、1076年2月にハインリヒ四世の破門と王位の剥奪を宣言します。


■ドイツ諸侯の反旗

かねてからハインリヒ四世への敵対意識の強かったザクセン公はじめドイツの諸侯たちは、この機会をとらえてハインリヒ四世に反旗を翻します。そして、1077年2月にアウグスブルクにおいて会議を開いて新しいドイツ王を決めることを決定します。さらに、グレゴリウス七世にも、アウグスブルクでの会議への参加を要請します。

こうなると、ハインリヒ四世には、教皇との和解しか道は残されていません。一刻も早く和解しなければ、王位を奪われるだけでなく、敵対者の武力攻撃も許すことになります。破門された人間には、法的庇護がないからです。ハインリヒ四世は、何としても教皇が会議に出席する前に教皇と会うため、北イタリアへ向かいます。


■カノッサ城

グレゴリウス七世は、アウグスブルクでのドイツ諸侯会議へ向かう途中、ハインリヒ四世の接近を知り、トスカーナ女伯マティルデのカノッサ城に避難します。マティルデは、教皇を保護します。


■赦しを求めるハインリヒ四世

1077年1月、突然現れたハインリヒ四世に教皇は戸惑い、捕縛されるのではないかと恐れ、城から出ようとしません。ハインリヒ四世は武器をすべて置き、修道士の服装に身をつつんで、城の前で教皇に赦しを求めます。


■仲介者

ハインリヒ四世は、トスカーナ女伯マティルデとクリュニー修道院長フーゴーに、教皇へのとりなしを頼みます。


■解かれた破門

ハインリヒ四世は許され、破門を解かれます。王の破門が解除されたことを受けて、教皇グレゴリウス七世はローマに戻ります。ドイツ諸侯は落胆します。


■ハインリヒ四世の逆襲

ハインリヒ四世は、ドイツに戻ると直ちに反対派の諸侯を制圧し、王権を確立します。1081年、ハインリヒ四世はイタリアに侵入し、ローマを囲みます。1084年3月24日、ハインリヒ四世はラヴェンナの大司教グイベルトをクレメンス三世として教皇位につけ、あらためてクレメンス三世から王冠を受けます。


■グレゴリウス七世の逃亡と客死

教皇グレゴリウス七世は、ノルマン公ギスカールによって救出されます。ローマを逃れた教皇は、サレルノへと移り、1085年5月25日に同地で没します。


■ハインリヒ四世の最期

1105年、ハインリヒ4世は息子のハインリヒ五世の手によって王位を追われ、さびしい最期をとげることになります。


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