エンリケ航海王子


■エンリケ航海王子

エンリケは、1394年3月4日、ポルトガルのポルトにおいて、国王ジョアン一世の三男として生まれました。探検事業家として航海者たちに指導と援助を与え、それまで未知の領域だったアフリカ西岸の踏破を達成させたことで、大航海時代の幕を開きました。

Photo “Monument to the Discoveries” by Plenumchamber


■セウタ遠征

1414年、21歳となったエンリケは、父ジョアン一世とともに、アフリカ北岸のイスラム都市セウタの攻略戦に参加します。翌年8月にはセウタの攻略が完了し、ポルトガルがアフリカ一帯へ進出する準備が整います。

エンリケはセウタ遠征の際、プレスター・ジョンの伝説を聞き、サハラ砂漠を越えるキャラバンなどイスラム貿易の実態を目にします。イスラム商人を介することなく金と香辛料を得る可能性を見出し、アフリカ西岸航路の開拓、さらにはインド航路開拓への野望を抱くようになりました。

Photo “Ceuta Peninsula” by Merlin Senger


■王子の村

1416年頃、エンリケはポルトガルの最南西端であるサンヴィセンテ岬のサグレスに、王子の村(Vila do Infante)を建設します。この村には、造船所、天体観測所、航海術や地図製作術を学ぶ学校などが開設されました。航海術や地図製作術に大きな発展がもたらされるとともに、後の探検の足がかりが築かれました。この地に程近いラゴスは、造船地帯として発展を遂げます。

1419年、前年12月にエンリケが派遣したジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコとトリスタン・ヴァス・テイシェイラによって、マデイラ諸島が発見され、翌年から植民地化が始められました。エンリケの事業にとって最初の成果でした。


■キリスト騎士団

1420年5月25日、エンリケはテンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者となり、死に到るまでその地位にありました。莫大な資産を保有する騎士団は、探検事業への強力な資金源となりました。

1427年、ディオゴ・デ・シルベスがアゾレス諸島を発見し、以後、この諸島においてゴンサロ・ベーリョ・カブラルらが探検を行いました。


■ボハドル岬を越えて

エンリケの時代まで、ヨーロッパの人々に知られていたアフリカ沿岸の最南端の地はカナリア諸島より200キロ南に位置するボハドル岬でした。ボハドル岬の先には世界の果てがあり、煮えたぎる海が広がっていると信じられており、当時の航海者の間でこの迷信に対する恐怖は絶大なものでした。エンリケは1422年頃からこの迷信に挑み続け、たびたび探検隊を派遣しましたが、失敗を繰り返していました。

1434年に到って、エンリケがジル・エアネスに与えて派遣した探検隊によって、この地が踏破され、これにより航海者に長く信じられた迷信が打破されました。


■キャラベル船

ポルトガルにおいて新たに開発されたキャラベル船によって、探検事業は飛躍的な進展を遂げることになります。

1441年、ヌーノ・トリスタンとアントン・ゴンサルヴェスが現在のモーリタニア沿岸に位置するブランコ岬に到達。1443年にはアルギン湾に達し、1448年にこの地にポルトガルの要塞を築きます。

1444年、バルトロメウ・ディアスの父であるディニス・ディアスがセネガル川とヴェルデ岬に到達。ギニアを訪れるとともに、サハラ砂漠の南端に達しました。これによりエンリケは、サハラ砂漠を通過するキャラバンに頼ることなくアフリカ南部の富を手に入れる航路を確立するという、当初の目的を達しました。アフリカ南部から大量の金が得られるようになり、1452年にはポルトガルで初の金貨が鋳造されました。

1444年から1446年にかけ、およそ14隻の探検船がラゴスの港より出港しました。1450年代、ヴェルデ岬諸島を発見。1460年には、今日のシエラレオネ沿岸にまで達します。

探検船がシエラレオネに到達した1460年の11月13日、エンリケは王子の村において66年の生涯を閉じます。エンリケの死から28年後の1488年、ポルトガルはバルトロメウ・ディアスによってアフリカ最南端の喜望峰を極めることになります。


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