クレオパトラ七世


■プトレマイオス朝

アレクサンドロス大王の死後、将軍の一人でマケドニア地方出身のギリシア人であったプトレマイオスは、紀元前306年にエジプトの地に王朝を創始します。首都はアレクサンドリアに置かれ、アレクサンドリアは地中海世界屈指の大都市、ヘレニズム文化の中心として栄えました。

プトレマイオス朝はエジプトの伝統を取り入れて血族結婚を繰り返したので、二百年以上エジプトを支配しながらエジプト人の血が混じらず、ギリシア人の血脈を保ちました。代々「プトレマイオス」という名前を持った王が、姉・妹・叔母・姪などにあたる「ベレニケ」「アルシノエ」「クレオパトラ」という名前を持った女王と共同統治しました。

しかし、プトレマイオス朝では一族内の殺し合いが頻繁に行なわれ、これに介入したローマにより、紀元前30年に滅ぼされます。

図は、ブリッジマン作『フィラエ神殿の露段に立つクレオパトラ』です。


■骨肉の争い

プトレマイオス朝の最後の女王となったクレオパトラ七世は、紀元前69年1月、アレクサンドリアで誕生します。

紀元前55年、父のプトレマイオス十二世と母のクレオパトラ五世がローマへ赴くことになり、年長の娘であるクレオパトラ六世に王冠が与えられます。しかし、クレオパトラ六世はすぐに変死し、その妹であるベレニケ四世が王権を握ります。父のプトレマイオス十二世はエジプトへ取って返し、娘のベレニケ四世を処刑します。

紀元前51年、父のプトレマイオス十二世が死去します。父王の遺言とプトレマイオス朝の慣例に従い、最も年長である18歳のクレオパトラ七世が弟である12歳のプトレマイオス十三世と結婚し、共同で王位に就きます。

クレオパトラ七世は、弟王を無視し、単独統治の意向を見せます。しかしこれは、女性の統治者は男性の共同統治者に従属するというプトレマイオス朝の伝統に反するものでした。紀元前48年、廷臣たちは陰謀を起こし、プトレマイオス十三世を単独統治者とします。クレオパトラ七世はエジプトから逃れます。


■カエサルとの出会い

紀元前48年9月、ポンペイウス追討のためエジプトへ入ったカエサルは、エジプトの共同統治者であるクレオパトラ七世とプトレマイオス十三世をアレクサンドリアへ招集します。クレオパトラ七世は、自らを袋にくるませ、カエサルのもとへ贈り物として届けさせます。

クレオパトラ七世がカエサルの愛人になったことを知ったプトレマイオス十三世は激怒し、カエサル軍を攻撃します。紀元前47年のナイルの戦いでカエサルは、プトレマイオス十三世をナイル川に溺死させます。弟のプトレマイオス十三世と結託し、姉のクレオパトラ七世と敵対していたアルシノエ四世は、ローマ軍に捕らえられ、のちにカエサルの凱旋式で引き回されることになります。


■カエサル暗殺まで

プトレマイオス十三世の敗死後、クレオパトラ七世はもう一人の弟であるプトレマイオス十四世と結婚して共同統治を再開します。共同統治は名目的なもので、実際には、カエサルの庇護を受けたクレオパトラ七世の単独統治でした。紀元前47年、女王はカエサルの子カエサリオンをもうけます。

紀元前46年、ローマへ帰還したカエサルは市民の熱狂的な歓呼に迎えられ、壮麗な凱旋式を挙行します。クレオパトラ七世は、カエサリオンをつれてローマに赴きますが、紀元前44年にカエサルが暗殺されると、カエサリオンをつれてエジプトに戻ります。

図は、カムッチーニ作『カエサル暗殺』です。


■カエサリオンの擁立

クレオパトラ七世がエジプトへ帰国する前後に、名目上の共同統治者であったプトレマイオス十四世が原因不明の死をとげます。クレオパトラ七世は、幼いカエサリオンをプトレマイオス十五世として共同統治者に指名します。


■アントニウスとの出会い

紀元前43年、アントニウス、オクタウィアヌス、レピドゥスの三人が、第二回三頭政治と呼ばれる形でローマを支配します。

紀元前42年、アントニウスとオクタウィアヌスは、ギリシアに逃れていたブルートゥスやカッシウスなどの共和派をフィリッピの戦いで破ります。

アントニウスは、東方諸国とともに共和派を支援したエジプト女王に出頭を命じます。クレオパトラ七世は、アプロディーテーのように着飾り、香を焚いて出頭します。逆にアントニウスを自らの宴席へ招待するなどして、瞬く間にアントニウスを籠絡します。

その後、二人の間には紀元前39年に双子の男女のアレクサンドロス・ヘリオスと、クレオパトラ・セレネ、紀元前36年には、もう一人の男の子プトレマイオス・フィラデルフォスが誕生します。

図は、アルマ=タデマ作『アントニウスとクレオパトラ』です。


■ローマとエジプトの対決

エジプトと同盟したアントニウスは、パルティア遠征で惨敗を喫したあと、アルメニア遠征で勝利を収めると、ローマではなくエジプトのアレクサンドリアで凱旋式を挙行します。政略結婚していたオクタウィアヌスの姉オクタウィアを一方的に離縁し、自分がエジプトに埋葬されることを望みます。

ローマ人の自覚を失ったように振舞うアントニウスにローマ市民は失望し、アントニウスとの決戦を望んでいたオクタウィアヌスへ支持が集まります。最終的にオクタウィアヌスがアントニウスに宣戦布告したとき、それは私闘ではなく、ローマとエジプトの対決となっていました。


■アクティウムの海戦

紀元前31年、クレオパトラ七世とアントニウスの連合軍と、オクタウィアヌスが率いるローマ軍とが、ギリシャ西岸のアクティウム沖で激突します。この海戦の最中にクレオパトラ七世は戦場を離脱し、アントニウスもクレオパトラ七世の船を追って逃亡し、ともにアレクサンドリアへ戻ります。海戦に勝利したオクタウィアヌスは、アレクサンドリアへ軍を進めます。

図は、カストロ作『アクティウムの海戦』です。


■クレオパトラ七世の死

アントニウスは、クレオパトラ七世が自殺したと聞き、自らも自刃します。しかし、クレオパトラ七世の自殺は誤報でした。アントニウスは瀕死の状態でクレオパトラ七世のもとに運ばれ、息を引き取ります。

クレオパトラ七世自身は、オクタウィアヌスに屈することを拒み、紀元前30年8月12日に自殺します。

エジプトを征服したオクタウィアヌスは、紀元前30年、カエサルの後継者となる可能性があるカエサリオンを殺害してプトレマイオス朝を滅ぼし、エジプトをローマに編入して皇帝直轄地とします。クレオパトラ七世がアントニウスとの間にもうけた三人の子供達は、アントニウスの前妻であるオクタウィアに預けられました。

図は、カバネル作『死刑囚に毒を試すクレオパトラ』です。


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