鎌倉幕府小史


■鎌倉幕府

鎌倉幕府は、源頼朝が鎌倉に創設した武家政権です。平氏政権に次ぐ第二の武家政権と位置づけられます。かつての通説では、鎌倉幕府は建久三年(1192年)に源頼朝が征夷大将軍に任官されて始まったとされましたが、頼朝の権力・統治機構はそれより早い時期から成立していました。頼朝の死後、将軍の地位は形骸化し、北条氏一門が執権として幕府の実権を握ります。


■鎌倉幕府の存立基盤

鎌倉幕府の存立基盤は、武士、特に関東武士団でした。武士は鎌倉殿(将軍)の御家人となることで鎌倉幕府の構成員となり、その主従関係は「御恩」と「奉公」と呼ばれる互恵関係によって保持されました。この制度を御家人制度と呼びます。

「御恩」は、鎌倉殿が御家人の所領支配を保障し、又は新たな土地給与を行うことを言います。所領支配の保障は本領安堵、新たな土地給与は新恩給与と呼ばれ、いずれも御家人を地頭へ任命するという形で行われました。

「奉公」は、御家人が鎌倉殿に対して負担する軍役・経済負担などを言います。具体的には、戦時における軍役、内裏の警護である京都大番役、幕府の警護である鎌倉番役、後の元寇の頃には異国警固番役や長門警固番役などの形で行われ、関東御公事と言われる経済負担もありました。

主従の契約は、御家人が鎌倉殿へ見参した際の名簿差出(みょうぶさしだし)によって行われ、幕府は御家人名簿により御家人を管理しました。


■鎌倉幕府の機構

「将軍」(征夷大将軍、鎌倉殿)は、鎌倉幕府の首長です。初代頼朝の時は実質的に首長でしたが、その後形骸化していきます。

「執権」は、将軍の補佐役です。次第に将軍の権限を吸収していき、鎌倉幕府の事実上の首長となりました。「連署」は、執権に次ぐ、もしくは執権に並ぶ役職です。

「評定衆」は、幕府の政策意思決定の最高合議機関です。得宗専制が進むと軽視されるようになります。

「侍所」は、御家人の統率を所管しました。「政所」は、頼朝の家政機関に端を発し、幕府の一般政務・財政を所管しました。

「問注所」は当初、訴訟・裁判事務全般を所管しました。後に「引付衆」が新設され、引付衆は御家人の所領関係訴訟(所務沙汰)を扱い、問注所ではその他の民事訴訟(雑務沙汰)および訴訟雑務(主に訴状の受理)を扱うという役割分担がなされました。


■鎌倉将軍の略系図

源頼朝と北条時政の娘政子との間に生まれた嫡男の頼家が二代将軍、弟の実朝が三代将軍となります。

建保七年(1219年)に実朝が暗殺された後、鎌倉幕府は皇族を将軍に迎えようとしますが、後鳥羽上皇に拒否されます。そのため、藤原(九条)道家と藤原(西園寺)倫子の子で、頼朝の同母妹(坊門姫)の曾孫にあたる二歳の三寅が鎌倉に迎えられます。三寅は、元服して頼経と名乗り、嘉禄二年(1226年)に将軍宣下により四代将軍となります。


■鎌倉幕府執権北条氏の略系図

北条氏惣領の家系は「得宗」と呼ばれます。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、義時(二代執権)からその嫡系である泰時(三代執権)・時氏・経時(四代執権)・時頼(五代執権)・時宗(八代執権)・貞時(九代執権)・高時(十四代執権)まで九代に渡ります。


■鎌倉幕府の成立

治承四年(1180年)、後白河上皇の皇子以仁王が平氏追討の兵を挙げ、これを契機に反平氏勢力が立ち上がります。伊豆に流罪となっていた源頼朝は、同年八月に挙兵し、石橋山の戦いで敗れますが、逃亡先の安房国から上総国・下総国を行軍する間に、関東一円の平氏系の武士団(坂東平氏)らの支持を獲得します。

瞬く間に大勢力となった頼朝軍は、同年十月、先祖ゆかりの地である鎌倉へ入り、本拠地とします。頼朝は、関東武士団を統率するための侍所を置き、関東武士団の代表「鎌倉殿」と称されます。

寿永二年(1183年)七月、源義仲が平氏を京都から追放しますが、京内で乱暴な行動を重ねます。これを憂慮した後白河上皇は、頼朝へ上洛を求めます。頼朝は逆に、東海道・東山道・北陸道の荘園・公領を元のように国司・本所に返還させる内容の宣旨(寿永二年十月宣旨)の発給を要求します。朝廷は頼朝の要求をほぼ認め、頼朝は間接的ながら東海・東山両道の支配権を獲得します。

寿永三年(1184年)、頼朝は行政を担当する公文所(後の政所)と司法を担当する問注所を置いて、政権の実体を形成していきます。同時に、頼朝は弟の源範頼・源義経を派遣し、平氏追討に当たらせます。

文治元年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、六年に渡る内乱が終結します。

同年、源義経・源行家が頼朝政権の内規に違反したことを契機に、頼朝は両者追討の院宣を後白河法皇から獲得するとともに、両者の追捕を名目に、守護・地頭の任免権を承認させます(文治の勅許)。

文治五年(1189年)、頼朝政権は奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼし、東国を完全に掌握します。

建久元年(1190年)、頼朝は常設武官の最高職である右近衛大将に補任されますが、すぐに辞し、より自由度の高い征夷大将軍を望みます。

これに反対した後白河上皇が建久三年(1192年)に死去すると、源頼朝は征夷大将軍に任官され、武家政権の始祖として神聖視されるようになります。


■北条氏の台頭と執権政治の確立

正治元年(1199年)一月、源頼朝が突然死去します。跡を継いで鎌倉殿となったのは、頼朝の嫡子で当時十八歳の源頼家でした。しかし、幕府の有力者たちは若年の頼家に政務を任せることに不安を抱き、有力御家人が頼家に代わって裁判と政務を執行する十三人の合議制と呼ばれる政治体制を築きます。

この合議制の中心にいたのは頼家の外戚にあたる北条氏です。北条時政・北条義時父子は他の有力御家人を次々と滅ぼしていきます(梶原景時の変、比企能員の変)。

建仁三年(1203年)、重病に陥った頼家は、外祖父時政の手により伊豆の修善寺へ幽閉され、弟の源実朝が次の鎌倉殿・将軍位に就きます。時政は、将軍実朝を補佐して執権と呼ばれる地位に就き、政治の実権を握っていきます。

元久二年(1205年)、時政は娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと画策、朝雅と対立する畠山重忠を殺害し、実朝を廃そうとします。しかし、時政の子の義時と政子はこの動きに反発し、有力御家人と連帯して時政を引退させ、平賀朝雅を抹殺します。北条義時が二代執権となり、北条氏権力の確立に努めます。

幕府内部では武力紛争が続き、承久元年(1219年)一月、将軍実朝の暗殺という最悪の事態に至ります。頼朝の直系が断絶し、困惑した幕府は、朝廷へ親王将軍を要望しますが、後鳥羽上皇はこれを拒否します。曲折の末、頼朝の遠縁に当たる摂関家の幼児が鎌倉に迎えられ、後に元服して頼経と名乗り、嘉禄二年(1226年)に将軍宣下により四代将軍となります。藤原頼経・頼嗣の二代の鎌倉殿は、摂家将軍と呼ばれます。

承久三年(1221年)五月、幕府の存在を疎ましく感じていた後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣を発します(承久の乱)。幕府側は、頼朝以来の御恩を訴えて御家人の大多数を味方につけ、朝廷軍を打ち破ります。主謀者の後鳥羽上皇・順徳上皇は流罪に処せられ、仲恭天皇は廃位、朝廷側の貴族・武士も多くが死罪とされました。幕府は朝廷監視のために六波羅探題を置き、朝廷に対する支配力を強めます。

元仁元年(1224年)に北条義時が死去し、義時の子の北条泰時が三代執権となります。

泰時は、世代交代期の混乱を防ぐため、叔父の北条時房を執権の補佐役である連署に当てるとともに、政治意思決定の合議機関である評定衆を設置し、集団指導体制を布きます。また、急増した訴訟事件を公平に処理するため、「御成敗式目」と呼ばれる法典(武家法)を制定します。

泰時の孫で五代執権となった北条時頼は、司法制度の充実に力を注ぎ、裁判の公平化のため、建長元年(1249年)に引付衆を設置します。

時頼は、執権権力の強化にも努めます。寛元四年(1246年)には時頼排除を企てた前将軍・藤原頼経と名越光時一派を幕府から追放し(宮騒動)、翌宝治元年(1247年)には有力御家人である三浦泰村の一族を討滅します(宝治合戦)。

建長四年(1252年)、幕府への謀叛に荷担した将軍藤原頼嗣が廃され、後嵯峨天皇の皇子の宗尊親王が新将軍として迎えられます。鎌倉幕府滅亡までの、宗尊親王・惟康親王・久明親王・守邦親王の四代は、親王将軍(宮将軍)と呼ばれます。

時頼は、病のため執権職を北条氏支流の北条長時に譲りますが、実権を握り続けます。この政治体制は、得宗専制と呼ばれます。


■元寇と幕府の衰退

時頼の死後、得宗の地位を継いだのは子の北条時宗です。時宗が八代執権となった文永五年(1268年)、モンゴル帝国第五代大ハーンのクビライが高麗を通して朝貢を要求してきます。朝廷は対応を幕府へ一任し、幕府は西国の防御を固めます。

モンゴルから国号を改めた元は、文永十一年(1274年)十月に九州北部を襲撃しますが、数日で撤退します(文永の役)。幕府は朝廷と一体になって国家鎮護に当たり、西国の警固の再強化をはかります。

弘安四年(1281年)夏、元は再度来寇し、九州北部を中心に日本への侵略を試みます。この時は一ヶ月以上にわたる鎌倉方の頑強な抵抗に遭い、侵攻が停滞していたところに台風による大被害を受けて元軍は敗退します(弘安の役)。

この間、時宗は非常事態への迅速な対処を名目として、一門や側近(御内人)らと専断で政策を決定していきました。御内人の筆頭格である内管領が次第に権力を持ち始め、有力御家人に対抗します。

弘安七年(1284年)に時宗が急死すると、翌弘安八年(1285年)、内管領の平頼綱は有力御家人の安達泰盛を襲撃して殺害します(霜月騒動)。この事件により、得宗専制が完成したとされます。平頼綱は、時宗の嫡子貞時を擁し、幕府内外で絶大な権勢を振るいます。

永仁元年(1293年)、成人した北条貞時は、平頼綱の恐怖政治に不安を抱き、一族を討滅します(平禅門の乱)。貞時は、政治の実権を内管領から取り戻し、実質的な得宗専制を一層強化していきます。

その後、執権職は貞時に代わって北条氏支流の四人が次々に受け継ぎますが、貞時は得宗として幕府を実質的に支配し続けます。貞時の時代には、北条氏一門の知行国が著しく増加しました。その一方、一般の御家人層では、急速に階層分化が進んでいきます。

応長元年(1311年)に貞時が死去すると、子の北条高時が跡を継ぎます。九歳の高時の補佐役に、平頼綱の一族の長崎高綱(長崎円喜)と、安達一族の生き残りの安達時顕が就きます。当時、悪党と呼ばれる新興勢力が現れ、寺社の強訴が相次いでいましたが、長崎高綱・安達時顕が支える得宗政権は、これらの動きに高圧的な姿勢で対処します。

成人して政務に就いた高時も、こうした態度を継承し、各地の動きを強権的に押さえ込もうとします。

元亨元年(1321年)、後醍醐天皇が親政を開始します。後醍醐天皇は、天皇を中心とする政治体制の再構築を企て、幕府の得宗専制と衝突することになります。

正中元年(1324年)、後醍醐天皇の蜂起計画が露呈し、側近の公家が幕府によって処罰されます(正中の変)。

元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は再び倒幕計画を立てますが、これも事前に発覚し、翌年隠岐島へ流されます(元弘の変)。しかし、これを契機に得宗専制に不満を持つ楠木正成・赤松円心など悪党と呼ばれる武士が各地で反幕府の兵を挙げます。

元弘三年(1333年)、反幕府勢力の討伐のために京都へ派遣された有力御家人の足利高氏(尊氏)が、一転して後醍醐天皇側へつき、六波羅探題を落とします。新田義貞が上野国で挙兵し、これに呼応した関東の御家人たちと鎌倉を攻略して、鎌倉幕府と北条氏は滅亡します。後醍醐天皇は京都へ帰還し、親政を開始します(建武の新政)。


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このページは、グレゴリウス写真館「鎌倉幕府」シリーズのプレゼンテーションとして作成しました。

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