鎌倉幕府旧跡


■鎌倉幕府旧跡

治承四年(1180年)に源頼朝が鎌倉に入り、元弘三年(1333年)に北条氏一門が滅びるまでの、鎌倉幕府関連の主な史跡を訪ねます。


■鎌倉幕府旧跡の略年表

主な史跡を、年表形式でリストアップします。

上記の鶴岡八幡宮・勝長寿院跡・永福寺跡・寿福寺・鎌倉大仏殿跡・建長寺・円覚寺・東勝寺跡に加えて、若宮大路・法華堂跡・和賀江島・朝夷奈切通・北条執権邸旧跡・北条氏常盤亭跡・称名寺・稲村ヶ崎もとりあげます。


■鎌倉幕府の場所(鎌倉町青年会碑文より編集)

治承四年(1180年)源頼朝、邸を大蔵の地に営み、後、覇権を握るにおよびて、政をこの邸中に聴く。いわゆる大蔵幕府これなり。爾来、頼家(頼朝嫡男、二代将軍)・実朝(頼家弟、三代将軍)を経て、この地が覇府の中心たりしこと、実に四十六年間なり。

嘉禄元年(1225年)政子(頼朝妻)薨じてより、これを他に遷さんとの議起り、すなわち時房・泰時(北条泰時は三代執権、北条時房は泰時の叔父で連署として執権を補佐)ら巡検評議の末、同年十一月、宇津宮辻の地に造営。十二月、将軍藤原頼経、これに移り住す(宇津宮辻幕府)。

頼経、後十一年にして嘉禎二年(1236年)再び若宮大路の地に遷す(若宮大路幕府)。爾来九十八年、頼経以後六代の将軍相継ぎて政をこれに聴けり。元弘三年(1333年)新田義貞の鎌倉に乱入するにおよびて、廃絶せり。

▲図は、国土地理院の空中写真に、鎌倉幕府の場所を憶測で記入したものです。大きく外れてはいないと思いますが、範囲等の学術的な裏づけはまったくありません。


■鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮は、河内源氏二代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺を、康平六年(1063年)に鎌倉の由比郷鶴岡に鶴岡若宮として勧請したのが始まりです。永保元年(1081年)には頼義嫡男の源義家(八幡太郎)が修復を加えます。

治承四年(1180年)、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、宮を現在の地である小林郷北山に遷します。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していきました。

建久二年(1191年)、社殿の焼失を機に、上宮と下宮の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請しました。

鶴岡八幡宮境内(鎌倉市雪ノ下・小町・材木座)は、国の史跡に指定されています。

▲写真は、鶴岡八幡宮の本宮(上宮)と舞殿です。


■若宮大路

若宮大路は、養和二年(1182年)、源頼朝の妻・政子の安産祈願のため造られました。京都の朱雀大路に倣い、鎌倉の都市計画の中心軸に位置づけられました。

鶴岡八幡宮に至る三つの鳥居があり、由比ヶ浜側から一の鳥居・二の鳥居・三の鳥居と呼ばれます。 二の鳥居から三の鳥居までの間は、盛土によって道の中央が一段高くなっており、段葛(だんかずら)と呼ばれます。

若宮大路(鎌倉市由比ガ浜・小町・御成町・雪ノ下・材木座)は、国の史跡に指定されています。

▲写真は、由比ガ浜歩道橋から、鶴岡八幡宮を望みます。


■勝長寿院跡

勝長寿院は、源頼朝が建立した寺院で、鶴岡八幡宮寺・永福寺と共に当時の鎌倉の三大寺院の一つでした。大御堂・南御堂とも呼ばれました。

元暦元年(1184年)、源頼朝は父源義朝の菩提を弔うための寺の建立を大御堂ヶ谷の地に定め、十一月に地曳始の儀を行いました。

文治元年(1185年)九月に義朝の遺骨とその腹心鎌田政清(正清・正家・政家とも)の首を埋葬し、十月に堂舎が完成して落慶供養が営まれました。

▲写真は、勝長寿院跡(鎌倉市雪ノ下)の源義朝・鎌田政家の墓です。


■永福寺跡

永福寺(ようふくじ)は、源頼朝が中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した寺院で、鶴岡八幡宮寺・勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺院の一つでした。二階建てであったことから、二階堂とも呼ばれました。

源頼朝は、文治五年(1189年)九月の奥州合戦の後、源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願。その年の十二月に永福寺の建立に着手しました。建久三年(1192年)に本堂が完成して、落慶供養が営まれました。

永福寺跡(鎌倉市二階堂)は、国の史跡に指定されています。

▲写真は、永福寺跡の伽藍背後に位置する崖です。


■法華堂跡

建久十年(1199年)一月に源頼朝が死去すると、大蔵幕府の奥にあった頼朝の持仏堂が廟所となり、法華堂と呼ばれました。

明治に入ると、廃仏毀釈により法華堂は壊され、その跡に頼朝を祀る白旗神社が建てられました。

法華堂跡の背後の山腹に、頼朝の墓と呼ばれる石塔があります。安永八年(1779年)に薩摩藩主・島津重豪が建立した供養塔です。

法華堂跡(鎌倉市雪ノ下・西御門)は「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」として、国の史跡に指定されています。

▲写真は、頼朝の墓へ登る石段です。石段の左に、鎌倉町青年団「法華堂跡」の石碑と、白旗神社の垣根が見えます。


■寿福寺

寿福寺は、源頼朝が没した翌年の正治二年(1200年)、妻の北条政子が明庵栄西を開山に招いて創建しました。

寺が立地するのは、奥州征伐に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした、源氏伝来の地です。この地には、頼朝の父源義朝の旧邸がありました。

寿福寺境内(鎌倉市扇ガ谷)は、国の史跡に指定されています。

▲写真は、寿福寺の総門です。


■和賀江島(鎌倉世界遺産登録推進協議会の説明文より)

鎌倉が都市として発展してくると、流入する物資の量も飛躍的に増えてきましたが、これを担ったのが海上交通でした。鎌倉の海岸は遠浅で外洋に面しているため、船着場としては不十分であり、着船が流されるなどの被害がたびたび起こっていました。

貞永元年(1232年)、筑前で築島の経験がある勧進上人の往阿弥陀仏が幕府に築島を願い出ると三代執権・北条泰時は直に許可を与え、およそ二十五日のうちに石積みの築堤和賀江島が完成しました。

鎌倉時代後期には幕府の許可を受けて極楽寺が維持管理を行っており、以後近年まで多くの船に発着の便を与え続けました。和賀江島は我国に現存する最古の築港遺跡で、現在も干潮の際にその姿を現しています。

和賀江島(鎌倉市・逗子市)は、国の史跡に指定されています。

▲写真は、和賀江島です。遠景に、稲村ヶ崎と江ノ島が見えます。


■朝夷奈切通(鎌倉世界遺産登録推進協議会の説明文より)

朝夷奈切通は、鎌倉と金沢・六浦を結ぶ道で、仁治元年(1240年)、三代執権・北条泰時により開削されました。これに先立つ八年前には和賀江島が築造され、相模湾から西方の着船の便を図っています。

六浦はこの時、北条一門金沢氏の所領となっており、房総方面をはじめ、東京湾の内海航路とつながっていました。六浦への道の整備は東京湾にそそぐ河川の航路ともつながるもので、東国の物資を鎌倉へ運搬するルートとして、朝夷奈切通は極めて重要な住還路であったとされています。

道の周囲にはやぐらや納骨堂跡などが存在し、切通周辺は宗教的な性格を持つ場であったことがうかがえます。

朝夷奈切通(鎌倉市十二所・横浜市金沢区)は、国の史跡に指定されています。

▲写真は、朝夷奈切通の鎌倉側、三郎の滝付近です。鎌倉町青年団「朝夷奈切通」の石碑が見えます。


■建長寺

建長寺は、建長五年(1253年)に五代執権・北条時頼によって創建された禅宗寺院です。開山は、中国から渡来した蘭渓道隆(大覚禅師)です。

承久の乱(1221年)を経て北条氏の権力基盤が安定し、当時は鎌倉が事実上、日本の首府となっていました。北条時頼は熱心な仏教信者であり、禅宗に深く帰依していました。建長寺の創建は、そうした時頼の信仰に基づくとともに、北条氏の権勢を誇示するものでした。さらに、海外渡来の最新文化であった禅宗の寺を建てることによって、京都の公家文化に対抗しようとしたとも見られています。

建長寺境内(鎌倉市山ノ内)は、国の史跡に指定されています。

▲写真は、建長寺仏殿です。左に法堂が見えます。


■鎌倉大仏殿跡

建長四年(1252年)八月、鎌倉大仏の鋳造が開始されました。五代執権・北条時頼の時代であり、建長寺造営の時期と重なります。一説には、関東鎮護のため、鎌倉幕府が大仏を造営したとされます。

当初大仏を収めていた大仏殿は、建武元年(1334年)および応安二年(1369年)の大風と明応七年(1498年)の大地震によって損壊に至ります。

露坐となり荒廃が進んだ大仏は、江戸中期、浅草の商人野島新左衛門の喜捨を得た祐天・養国の手で修復され、別当寺は新左衛門の法名から高徳院と命名されました。

鎌倉大仏殿跡(鎌倉市長谷)は、国の史跡に指定されています。また、鎌倉大仏は「銅造阿弥陀如来坐像」として、国宝に指定されています。

▲写真は、国宝の銅造阿弥陀如来坐像(鎌倉大仏)です。


■円覚寺

円覚寺は、弘安五年(1282年)に八代執権・北条時宗によって創建された禅宗寺院です。開山は、中国から招かれた無学祖元(仏光国師)です。

北条時宗は、モンゴル帝国の日本に対する圧力が高まるなかで執権に就任し、内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、圧倒的に国力の勝るモンゴルの二度にわたる侵攻を退けました。

時宗は、文永・弘安両役に殉じた彼此両軍死者の菩提を弔い、己の精神的支柱となった禅道を広めたいと願い、且つ、その師仏光国師への報恩の念から、円覚寺の建立を発願しました。

円覚寺境内(鎌倉市山ノ内・大船)は、国の史跡に指定されています。

▲写真は、国宝の円覚寺舎利殿です。


■北条執権邸旧跡

鶴岡八幡宮の南東、現在の宝戒寺の場所に、北条義時(二代執権)以来、歴代の執権が邸宅とした小町亭がありました。

元弘三年(1333年)、新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め寄せると、北条高時(十四代執権)は小町亭をあとに、東勝寺へこもります。小町亭は灰塵に帰しました。

建武二年(1335年)、足利尊氏は高時一族の慰霊のため、小町亭の跡に宝戒寺を建立しました。

▲写真は、宝戒寺(鎌倉市小町)の山門です。画面よりも手前の左側に、鎌倉町青年会「北条氏執権邸旧跡」の石碑があります。


■北条氏常盤亭跡

常盤亭は、七代執権・北条政村の別荘として建てられました。常盤の名は政村の号、常盤院覚崇に由来します。

昭和五十二年(1977年)に行われた発掘調査により、建物跡などが確認され、その存在が証明されました。敷地内には、門柱の跡・やぐら・法華堂跡などが残ります。

北条氏常盤亭跡(鎌倉市常盤)は、国の史跡に指定されています。

▲写真は、北条氏常盤亭跡のタチンダイ(館の台)です。中央にやぐらが見えます。


■称名寺

称名寺は、金沢北条氏の祖・北条実時が正嘉二年(1258年)に六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)が起源とされます。のち文永四年(1267年)、下野薬師寺の僧・審海を開山に招いて真言律宗の寺となりました。

金沢北条氏一族の菩提寺として鎌倉時代を通じて発展し、二代顕時・三代貞顕(十五代執権)の時に伽藍や庭園が整備されました。

称名寺と縁の深い金沢文庫は、実時が病で没する直前の建治元年(1275年)ころ、居館内に文庫を設けたのが起源とされます。文庫には、実時が収集した政治・歴史・文学・仏教などに関わる書籍が収められていました。

称名寺境内(横浜市金沢区金沢町・西柴町)は、国の史跡に指定されています。

▲写真は、称名寺の仁王門から、浄土庭園の反橋と金銅を望みます。


■稲村ヶ崎

元弘三年(1333年)五月、上野国新田荘を本拠とする新田義貞が挙兵し、分倍河原の戦いと関戸河原の戦いで北条氏の軍に勝利して鎌倉に迫りました。十八日に極楽寺口より攻撃を加え、二十一日には義貞自ら稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとします。

波打ち際は切り立った崖で、道は狭く、軍勢の通過は困難でした。義貞が剣を投じると、潮が引いて干潟となり、鎌倉に攻め入ったと伝えられます。

稲村ヶ崎(鎌倉市稲村ガ崎)は「稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)」として、国の史跡に指定されています。

▲写真は、七里ヶ浜から見た、稲村ヶ崎です。


■東勝寺跡

嘉禄元年(1225年)、三代執権北条泰時は、鶴岡八幡宮の南東、滑川をこえた葛西ヶ谷の谷間に東勝寺を築き、北条一族の菩提寺としました。この寺は、菩提寺であると同時に、有事に備えた城塞でもあったと推測されています。

元弘三年(1333年)、新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め寄せると、北条高時(十四代執権を辞して出家していたが、実質的な最高権力者)ら北条氏一門は当寺にこもり、自ら火を放って自刃しました(東勝寺合戦)。

東勝寺跡(鎌倉市小町)は、国の史跡に指定されています。

▲写真は、東勝寺跡の高時腹切りやぐらです。


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このページは、グレゴリウス写真館「鎌倉幕府」シリーズのプレゼンテーションとして作成しました。

テキストの作成には、国指定文化財データベース、鎌倉世界遺産登録推進協議会サイト、鎌倉の史跡碑サイト、神社・寺院のホームページ、ウィキペディア、その他を利用しました。ただし、忠実な引用ではない場合があります。


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