鎌倉公方と関東管領


■鎌倉公方と関東管領

室町幕府は関東を統治するために鎌倉府と呼ばれる政庁を設置しました。その前身となったのは、建武政権が設置した鎌倉将軍府です。足利尊氏は、建武政権に反旗を翻すと、鎌倉に嫡男の義詮を置いて関東統治に当たらせます。

貞和五年(1349年)、足利尊氏の嫡男義詮の後任として、次男基氏が鎌倉へ派遣され、以来基氏の子孫が鎌倉府の首長となり、上杉氏が代々補佐役を務めました。

室町幕府は、鎌倉府の首長を関東管領、補佐役を関東執事として任命しましたが、後代になると、関東管領の足利氏が将軍家に擬えて鎌倉公方と僭称し、関東執事の上杉氏がこれに倣って自らを関東管領と僭称するようになりました。近年の慣例では、遡って、足利基氏を初代鎌倉公方、山内上杉家の祖である上杉憲顕を初代関東管領として数えます。

鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏はやがて対立し、永享の乱(1439年)では関東管領の上杉憲実が幕府方につき、鎌倉公方の足利持氏を敗死させます。

その後、持氏の遺児の足利成氏が鎌倉公方となりますが、享徳の乱(1455年)を起こして幕府方の上杉氏や今川氏によって鎌倉を追われ、下総の古河に逃れます(古河公方)。成氏に対抗する鎌倉公方として幕府から派遣された足利政知も伊豆の堀越に御所を定めたため(堀越公方)、鎌倉公方という肩書きは消滅します。

以後、古河公方を頂点とする関東諸豪族の勢力と、幕府方の堀越公方・関東管領山内上杉家・扇谷上杉家とが、関東を東西に二分して戦い続けます。

享徳の乱が和解によって終結すると、今度は、争乱の中で勢力を伸ばした扇谷上杉家が宗家の関東管領山内上杉家と対立し、長享の乱(1487年)が勃発します。

この間に、堀越公方を滅ぼした伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆国から相模国へ進出し、やがて早雲の孫の北条氏康が古河公方・関東管領山内上杉家・扇谷上杉家を駆逐して関東を制圧します。

北条氏康に敗れた関東管領の上杉憲政は、越後国に入って長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り、氏康の討伐に出陣した景虎に山内上杉家の家督と関東管領職を譲ります。


■室町幕府将軍・鎌倉公方足利氏の略系図

室町幕府初代将軍の足利尊氏と、副将軍と称された足利直義は、一歳違いの同母兄弟です。尊氏と直義の兄弟仲はすこぶる良く、尊氏は直義に絶大な信頼を寄せていました。しかし、尊氏と直義の二頭政治が幕府内に派閥を発生させ、観応の擾乱という悲劇を生むことになります。

室町幕府二代将軍の足利義詮と、初代鎌倉公方の足利基氏は、足利尊氏の正室である赤橋登子の長男と次男です。義詮と基氏も兄弟仲が良く、幼少時にはそれぞれ鎌倉で上杉憲顕の補佐を受けました。

三代将軍足利義満と、二代鎌倉公方足利氏満・三代鎌倉公方足利満兼の時代になると、将軍家と鎌倉公方家の間に将軍職をめぐって次第に緊張関係が生じてきます。

六代将軍足利義教は、対抗する四代鎌倉公方足利持氏を敗死させ、鎌倉公方は中絶に至ります。


■関東管領上杉氏の略系図

上杉氏の先祖は、藤原北家勧修寺流の流れを汲み、鎌倉時代の中頃まで京都の中級公家の家柄でした。重房の代に至って丹波国何鹿郡上杉庄を領して、上杉氏を称しました。

上杉重房は、鎌倉幕府の征夷大将軍に迎えられた宗尊親王に従って鎌倉へ下向し、有力御家人の足利氏と姻戚関係を結びました。重房の子の上杉頼重が二代当主、孫の上杉憲房が三代当主となります。

初代関東管領の上杉憲顕は、上杉憲房の子です。足利尊氏・直義兄弟の母清子は父憲房の妹であり、従って憲顕と尊氏・直義とは従兄弟の関係でした。

父の憲房は建武三年(1336年)に尊氏を京から西へ逃がすため京都四条河原で南朝方の北畠顕家・新田義貞と戦って戦死、また弟の上杉憲藤も暦応元年(1338年)に摂津で顕家と戦って戦死したため、憲房の跡を憲顕が継ぐことになりました。

鎌倉に居住した上杉氏一族は、上杉憲顕を祖とする山内上杉家、上杉憲藤(憲顕の弟)を祖とする犬懸上杉家、上杉重兼(憲顕の従兄弟)を祖とする宅間上杉家、上杉重顕(憲顕の伯父)を祖とする扇谷上杉家に分流し、上杉四家と呼ばれました。


■鎌倉幕府滅亡後の鎌倉

元弘三年(1333年)、新田義貞らの攻撃によって北条高時を実質的な最高権力者とする鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇の親政である建武の新政が開始されました。

建武元年(1334年)、建武政権は関東統治を目的として、後醍醐天皇皇子の成良親王を将軍とし、足利尊氏の弟の足利直義を執権とする鎌倉将軍府を設置しました。

建武二年(1335年)、北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱(中先代の乱)が起こり、時行の軍勢は鎌倉を一時占拠します。直義は成良親王や、尊氏の嫡子の幼い足利義詮らを連れて鎌倉を逃れます。鎌倉には建武政権から失脚した後醍醐天皇皇子の護良親王が幽閉されていましたが、直義は鎌倉を落ちる際に密かに護良親王を殺害させます。

尊氏は後醍醐天皇に時行討伐の許可と征夷大将軍の役職を願いますが許されず、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向かいます。天皇はやむなく尊氏に征東将軍の号を与え、尊氏は直義の軍勢と合流し、時行を駆逐して鎌倉を回復します。

尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与え、京都からの上洛の命令も拒んで、武家政権創始の動きを現します。天皇は新田義貞に尊氏討伐を命じ、奥州からは北畠顕家が南下を始めます。

尊氏は天皇に反旗を翻すことを決意し、京都へ進軍を始めます。その際、嫡子足利義詮を鎌倉に残し、義詮を補佐するため斯波家長、次いで上杉憲藤を関東執事に任命します。

建武四年末から暦応元年にかけて(1338年)、斯波家長と上杉憲藤が北畠顕家との戦いで相次いで戦死。上杉憲藤の後任として上杉憲顕が、斯波家長の後任として高師冬が関東執事に就任します。


■鎌倉府の確立

貞和五年(1349年)、幕府内で高師直の執事罷免を画策した足利直義が逆に敗れ、直義は出家して幕政から退くことになります。

足利尊氏は直義に代わって政務を担当させるため嫡男義詮を鎌倉から呼び戻し、代わりに次男基氏を下して関東統治に当たらせます(初代鎌倉公方)。上杉憲顕と高師冬が関東執事として基氏を補佐することになります。

観応元年(1350年)、足利直義派が勢力を盛り返し、足利尊氏・高師直派との抗争が始まります(観応の擾乱)。関東では、直義派の上杉憲顕が高師冬(高師直の従兄弟で養子)と拮抗することになり、憲顕は子の上杉能憲と共に尊氏に敵対します。

観応二年(1351年)、憲顕は鎌倉を出て上野国に入り、常陸国で挙兵した能憲と呼応して鎌倉を脅かし、師冬を鎌倉から追い落として鎌倉公方足利基氏を奪取します。次いで師冬を自害に追い込み、さらに直義を鎌倉に招こうとしたため、尊氏の怒りを買って上野・越後における守護職を剥奪されます。

観応三年(1352年)、直義が死去して観応の擾乱は終結。憲顕は信濃国に追放されます。

文和二年(1353年)、畠山国清が関東執事に就任して鎌倉公方足利基氏を補佐します。

しかし、尊氏が没すると、二代将軍となった足利義詮および鎌倉公方となった足利基氏の兄弟は、幼少時に執事として補佐を受けた上杉憲顕を密かに越後守護に再任します。

康安元年(1361年)、畠山国清と対立した家臣団が基氏に国清の罷免を求めます。国清が抵抗したため、基氏が国清を討つに至ります。後任の関東執事に高師有が就任します。

貞治二年(1363年)、基氏はついに越後にいた上杉憲顕を関東執事として鎌倉に呼び寄せます。この動きを知った芳賀禅可(宇都宮氏綱の重臣)は鎌倉に上る憲顕を上野で迎え撃とうとして、逆に基氏の軍勢に敗退します。これに口実を得た基氏は宇都宮氏綱を圧迫し、越後・上野守護職を公式に剥奪します。

代々の東国武家である畠山国清および宇都宮氏綱が務めていた関東執事職および越後・上野守護職は、新興勢力である上杉憲顕に与えられ(この時の関東執事就任を、初代関東管領就任と見なします)、上杉氏は代々その職を継ぐことになります。


■将軍家と鎌倉公方の緊張関係

貞治六年(1367年)、足利氏満が父基氏の死去によって二代鎌倉公方となります。氏満は、関東管領を継いだ上杉憲春とともに宇都宮氏綱をはじめとする関東諸勢力と戦い、関東に強力な支配権を形成します。

康暦元年(1379年)、中央で幕府内部の抗争(康暦の政変)が起こると、氏満はそれに呼応して将軍足利義満に対して挙兵しようとしますが、憲春が自刃して諌めたために断念します。

氏満はその後、新田氏や宇都宮氏の挙兵、小山氏の乱、関東地方の一揆などを鎮圧し、その功績により義満から陸奥国と出羽国の統治も任されます。

応永五年(1398年)、足利満兼が父氏満の死去によって三代鎌倉公方となります。鎌倉公方家では、父の代から京都の将軍家との緊張関係が続いていました。

応永六年(1399年)、大内義弘が堺で将軍足利義満に対して挙兵します(応永の乱)。満兼は義弘に加勢するため鎌倉を発ち、武蔵国府中まで進軍しますが、関東管領の上杉憲定に諌められ、さらに義弘の敗死を聞き、引き返します。


■鎌倉公方の中絶

応永十六年(1409年)、足利持氏が父満兼の死去によって四代鎌倉公方となります。

応永十八年(1411年)、犬懸上杉家の上杉氏憲(禅秀)が関東管領に就任します。氏憲は持氏の叔父にあたる足利満隆、満隆の養子で持氏の弟である足利持仲らと接近し、若い持氏に代わって鎌倉府の実権を掌握しようと図ります。

応永二十二年(1415年)、評定で氏憲が持氏と対立すると、氏憲は関東管領を更迭され、後任として山内上杉家の上杉憲基が管領職に就きます。

応永二十三年(1416年)、氏憲と満隆が挙兵し、鎌倉を制圧下に置きます(上杉禅秀の乱)。駿河へ逃れた持氏は幕府の援助を受け、翌年には越後守護上杉房方らの助力を得て反乱は鎮圧されます。氏憲・満隆・持仲らは鎌倉雪ノ下の鶴岡別当坊で自害します。

この後、越後守護上杉房方の三男の上杉憲実が、従兄弟で関東管領の上杉憲基の養子となり、鎌倉へ入ります。まもなく憲基が没したため、憲実は十歳で関東管領に就任します。

応永三十年(1423年)、鎌倉公方足利持氏は、京都扶持衆の小栗満重が室町幕府の命令を受けて反乱を企てたとしてこれを攻め滅ぼし、続いて、同じく扶持衆の宇都宮持綱・桃井宣義を倒して関東から親幕府勢力の一掃を図ります(小栗満重の乱または応永の乱)。これに対して四代将軍の足利義持は持氏討伐を計画しますが、持氏の謝罪によって討伐は中止されます。

応永三十五年(1428年)、四代将軍の足利義持が没し、籤引きで足利義教が六代将軍に就任します。鎌倉公方足利持氏は自らが将軍後継の候補に選ばれなかった事に不満を持ち、兵を率いて上洛しようとしますが、関東管領上杉憲実はこれを諫止します。その後も憲実は一貫して鎌倉府と幕府との調停に努めますが、持氏と憲実の間に緊迫状態が生じてきます。

永享十年(1438年)、持氏が憲実を暗殺するという噂が立ち、憲実は鎌倉を出奔して領国の上野国平井城に下り、持氏は憲実討伐のために出陣します(永享の乱)。幕府は、持氏討伐の兵を下し、鎌倉軍は幕府軍に敗れます。

持氏は幕府への恭順を誓い、武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷の称名寺に入り出家します。持氏は鎌倉二階堂谷の永安寺に移され、幽閉されます。憲実は持氏の助命を幕府に嘆願しますが、将軍足利義教はこれを許さず、憲実はやむなく永安寺を攻めて持氏を自害させます。乱後、憲実は後事を弟の上杉清方に託して出家します。

永享十二年(1440年)、結城氏朝が持氏の遺児を奉じて挙兵します(結城合戦)。幕府は憲実に復職を命じ、憲実はやむなく出陣しますが、反乱が終結すると再び隠遁します。

嘉吉元年(1441年)、京都において結城合戦祝勝の名目で招かれた将軍足利義教が家臣の赤松満祐に暗殺されます(嘉吉の乱)。幕府は関東の秩序回復のため、憲実に関東管領復帰を命じますが、憲実はこれを拒み、越後守護家を継いだ次男房顕を除く子供たちも出家させ、子供たちに決して還俗しないよう命じます。

文安四年(1447年)、憲実の長男上杉憲忠が還俗して関東管領に就任します。憲実は憲忠を不忠の子であるとして義絶します。


■享徳の乱

永享の乱の結果として鎌倉公方は断絶しましたが、将軍足利義教が嘉吉の乱で暗殺された後、上杉氏一門や関東諸士から室町幕府への働きかけによって、再興が承認されます。

宝徳元年(1449年)、足利持氏の遺児の足利成氏が、新たな鎌倉公方として鎌倉に帰還します。持氏を死に追いやった上杉憲実の長男である上杉憲忠が、関東管領として成氏を補佐することになります。

享徳三年(1455年)、鎌倉公方足利成氏が、関東管領上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺します。これにより、以後二十八年間に及ぶ享徳の乱が勃発します。憲忠の後を継いだ弟の上杉房顕は、上野国平井城に拠り、成氏に対抗します。

幕府は成氏討伐を決定し、駿河守護今川範忠に出陣を命じます。成氏は、上杉方の攻略に手間取っている間に留守にしていた鎌倉を今川範忠に占拠され、鎌倉に戻るのを断念して、下総国古河城を本拠とします(古河公方)。

長禄二年(1458年)、幕府は成氏に対抗するため、将軍足利義政の異母兄足利政知を新たな鎌倉公方として東下させます。しかし政知は鎌倉に入ることができず、伊豆国堀越に留まり、ここに御所を設けます(堀越公方)。

以後、おもに下野・常陸・下総・上総・安房を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族と、おもに上野・武蔵・相模・伊豆を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉家・扇谷上杉家とが、関東を東西に二分して戦い続けます。

文明三年(1471年)、古河公方足利成氏は遠征して、伊豆の堀越公方足利政知を攻めますが、敗れて古河城に撤退します。

文明八年(1476年)、長尾景春が山内上杉家の家宰職に就けなかった恨みから、主君である関東管領の上杉顕定に反旗を翻します(長尾景春の乱)。

文明九年(1477年)、長尾景春は、武蔵国児玉郡五十子で古河公方と対陣していた山内上杉顕定および扇谷上杉定正を急襲して、上野国へ敗走させます。

文明十年(1478年)、危機感を抱いた顕定は、古河公方足利成氏との和睦を成立させます。長尾景春の反乱は、扇谷上杉家の家宰である太田道灌の活躍によって鎮圧されます。

文明十四年(1483年)、古河公方と幕府の和睦が成立します(都鄙合体)。この結果、成氏による反幕府的行動は停止されますが、配下に多くの諸将を持つ古河の成氏と、幕府公認の公方として権限を持ちながら関東に入れない堀越の政知の二人の公方が並存する状態が続くことになります。


■関東管領上杉氏の衰退

長尾景春の乱は太田道灌の活躍で鎮圧されましたが、関東管領である山内上杉家の上杉顕定の権威は落ち込み、道灌の主君である扇谷上杉家の上杉定正の権威が高まります。これを憂慮した顕定は、道灌に対する定正の猜疑心を煽る一方、秘かに定正との戦いの準備を進めます。

文明十八年(1486年)、上杉定正は功臣である太田道灌を相模国大住郡糟屋荘の糟屋館に招いて暗殺します。死に際に道灌は「当方滅亡」と呻いたとされます。

長享元年(1487年)、山内上杉顕定が、扇谷上杉定正の討伐を開始します(長享の乱)。十八年続いたこの戦いは顕定の勝利に終わりますが、享徳の乱から通算して五十年にわたった戦乱で関東は荒廃します。さらに、上杉定正が堀越公方を攻め滅ぼした伊勢宗瑞(北条早雲)を関東に招き入れたことによって、後北条氏台頭のきっかけが作られます。

後北条氏は、小田原城奪取、相模平定を経て、関東中心部へと勢力を拡大していきます。これに対し、山内上杉家は二度にわたる家督争い(顕実と憲房、憲寛と憲政)によって自ら勢力を後退させます。

天文十五年(1546年)、武蔵国川越城付近での河越夜戦において、古河公方足利晴氏・関東管領山内上杉憲政・扇谷上杉朝定の連合軍が、北条氏康に敗北します。古河公方と山内上杉家は大打撃を受け、扇谷上杉家は朝定が討死して滅亡します。憲政は上野国平井城に逃れ、勢力の立て直しを図りますが、次第に北条氏康に圧迫されていきます。

天文二十一年(1552年)、関東管領上杉憲政の居城である上野国平井城が、北条氏康の攻撃を受けて落城します。

永禄元年(1558年)、関東管領上杉憲政は越後国に入って長尾景虎(後の上杉謙信)を頼ります。

永禄三年(1560年)、長尾景虎が北条氏康を討伐するため、関東管領上杉憲政を奉じて越後国から関東へ向けて出陣します。

永禄四年(1561年)、長尾景虎は鎌倉を攻略し、十万余の大連合軍を率いて北条氏康の居城である小田原城を包囲します。しかし、小田原城の防衛は堅く、景虎は小田原城から撤退し、鎌倉に兵を引き上げます。

この時、長尾景虎は鶴岡八幡宮の社前で、上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を相続し、名を上杉政虎と改めます。


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このページは、グレゴリウス写真館「鎌倉公方と関東管領」シリーズのプレゼンテーションとして作成しました。

テキストの作成には、おもにWikipediaを利用しました。ただし、忠実な引用ではない場合があります。

上記目次では特に、写真156「鎌倉府の史跡碑」をご参照ください。鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏について記した鎌倉市内の五基の石碑を訪ねます。


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