前九年の役


安倍氏略系図

●背景

十一世紀の東北地方には、陸奥国に安倍氏、出羽国に清原氏という土着豪族の二大勢力が存在していました。安倍氏は、衣川の北の奥六郡と呼ばれる地域を半独立的に支配していましたが、やがて朝廷への貢賦・徭役を怠るようになり、衣川の南へ進出を図ります。


前九年の役略年表

●鬼切部の戦い

永承六年(1051年)、陸奥守の藤原登任は、数千の兵を出して、安倍氏懲罰に向かいます。両軍は鬼切部(おにきりべ)の地で戦いますが、結果は安倍軍が国府軍に圧勝し、敗れた登任は更迭されて都へ帰ります。朝廷は、後任として、武勇の誉れ高い河内源氏の源頼義を陸奥守に任命します。


前九年合戦絵巻(東京国立博物館)

●上東門院病気平癒祈願の大赦

翌・永承七年(1052年)、朝廷は後冷泉天皇の祖母である上東門院(藤原彰子)の病気平癒祈願のために大赦を行い、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されます。

安倍氏の族長である頼良は、陸奥国に到着した源頼義を饗応し、頼義と同音であることを遠慮して自ら名を頼時と改めます。

翌・天喜元年(1053年)、源頼義は鎮守府将軍を兼任します。

◆図は、東京国立博物館所蔵「前九年合戦絵巻(摸本)」です。宴席の源頼義・義家と側近たちを描きます。


前九年の役略地図

●阿久利川事件

天喜四年(1056年)、源頼義の陸奥守としての任期が終わる年を迎えます。ある時、頼義が鎮守府(胆沢城)から国府(多賀城)に戻るために阿久利川の河畔に野営していると、頼義配下の在庁官人である藤原光貞と元貞が夜討ちにあって人馬に損害が出たとの報告があります。安倍頼時の嫡子である安倍貞任に嫌疑がかけられ、源頼義が貞任を呼び出しますが、頼時は貞任の出頭を拒否し、安倍軍と国府軍は再び戦いに突入します。

安倍頼時の女婿である平永衡と藤原経清は、ともに衣川の南にあって源頼義配下の将となっていました。戦いが始まると、平永衡は敵軍へ内通しているとの讒言をうけ、これを信じた頼義は永衡を粛清します。同じ安倍頼時の女婿という立場で頼義に従っていた藤原経清は、累が自分に及ぶと考え、国府軍を離脱して安倍軍に帰属します。

同年末、源頼義は陸奥守に更任されます。


前九年合戦絵巻(東京国立博物館)

●黄海の戦い

翌・天喜五年(1057年)五月、安倍頼時は、伏兵の攻撃を受け、不慮の死を遂げます。頼時の跡を継いだのは、嫡子の安倍貞任です。

同年十一月、源頼義は陸奥国府から出撃し、安倍貞任に決戦を挑みます。貞任は河崎柵に兵力を集め、黄海(きのみ)の地で頼義軍を迎撃します。冬期の遠征で疲弊し、補給物資も乏しく、兵力でも劣っていた頼義軍は大敗を喫し、頼義は長男の義家を含むわずか七騎で辛くも難を逃れます。

その後、源頼義が勢力回復に手間取っている間に、安倍氏は衣川の南に勢力を伸ばします。

◆図は、東京国立博物館所蔵「前九年合戦絵巻(摸本)」です。安倍貞任・宗任の軍を描きます。


前九年合戦絵巻(東京国立博物館)

●清原氏参戦と安倍氏滅亡

康平五年(1062年)春、陸奥守の任期が過ぎた源頼義の後任として、高階経重が着任します。しかし、郡司らは頼義に従い、経重には従わなかったため、経重は帰洛して解任され、再び頼義が陸奥守に任ぜられます。
同年七月、それまで中立を保っていた出羽国の豪族清原氏の族長である清原光頼が、源頼義からの参戦の要請を聞き入れ、弟の清原武則を総大将として軍勢を派遣します。清原氏の参戦によって形勢は一気に逆転し、国府軍は安倍軍を北へ追い詰めます。

同年九月、安倍氏の拠点である厨川柵が陥落します。安倍貞任は深手を負って捕らえられ、源頼義の面前に引き出されますが、頼義を一瞥しただけで息を引き取ります。藤原経清は、苦痛を長引かせるため鈍刀で斬首されます。

◆図は、東京国立博物館所蔵「前九年合戦絵巻(摸本)」です。源頼義・義家の軍を描きます。


●戦後処理

源頼義は、陸奥国における河内源氏のさらなる勢力拡大を目論んでいましたが、朝廷は頼義を正四位下伊予守に叙任します。陸奥守への再任に失敗した頼義は、清原氏に陸奥国の支配権を譲る形で帰京します。

清原武則は、この戦功により朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任され、奥六郡を与えられます。こうして清原氏が陸奥・出羽の覇者となります。

藤原経清の妻であった安倍頼時の娘は、敵の清原武貞の妻となります。経清の遺児も武貞の養子として引き取られて、清原清衡を名乗ります。このことが、約二十年後の後三年の役の伏線となります。


◆このページのテキストの作成には、おもにWikipediaを参照しました。ただし、忠実な引用ではない場合があります。

◆後編「後三年の役」もご参照ください。


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