後三年の役


清原氏略系図

●背景

十一世紀の東北地方には、陸奥国に安倍氏、出羽国に清原氏という土着豪族の二大勢力が存在していました。しかし、陸奥国の安倍氏は国司と対立し、前九年の役と呼ばれる戦いの末に滅び去ります。この時、戦役の最終局面で参戦して国司軍勝利の鍵となったのが、清原氏の清原武則です。

清原氏の当主の座は、前九年の役当時の清原光頼から弟の武則の系統に遷り、武則から息子の武貞、武貞から嫡子の真衡へと継承されます。真衡には嫡男が生まれなかったので、真衡は海道小太郎成衡を養子に迎えます。

他方で真衡の父の武貞は、前九年の役が終結した際、藤原経清の妻であった安倍頼時の娘を自らの妻とし、経清の遺児を養子に迎えて清原清衡を名乗らせます。その後、武貞と安倍頼時の娘の間に、清原家衡が生まれます。


後三年の役略年表

●清原氏の内部分裂と源義家の介入

永保三年(1083年)、清原真衡は養嗣子である成衡の嫁として、源頼義が陸奥国に向かう途中、常陸国で平宗基の娘と一夜を共にして生まれたとされる女性を迎えます

前九年の役の功労者で清原一族の長老である吉彦秀武は、成衡の婚礼を祝うため、出羽から陸奥の真衡の館を訪れます。秀武は朱塗りの盆に砂金を盛って頭上に捧げ、甥である真衡の前に出ますが、真衡は碁に夢中になっており、秀武を無視し続けます。一族の長老としての面目を潰された秀武は大いに怒り、砂金を庭にぶちまけて出羽に帰ります。真衡は秀武の行為を聞いて激怒し、直ちに秀武討伐の軍を起こします。

これに対抗して吉彦秀武は、同じく真衡と不仲であった清衡と家衡に密使を送って蜂起を促します。清衡と家衡は真衡の館に迫りますが、これを知った真衡が軍を返したため、清衡と家衡は決戦を避けて退却します。

同年の秋、源頼義の嫡男の源義家が陸奥守を拝命し、陸奥国に入ります。真衡は義家を三日間に亘って国府で歓待します。

その後、真衡は秀武を討つために再び出羽に出撃します。清衡と家衡は真衡の不在を好機と見て再び真衡の館を攻撃しますが、義家が真衡側に加勢し、清衡と家衡は義家に降伏します。ところが、出羽に向かっていた真衡が行軍の途上で急死します。


後三年の役略地図

●家衡の清衡襲撃

清原真衡の死後、源義家は真衡の所領であった奥六郡を三郡ずつ清衡と家衡に分与します。清衡には南の和賀郡・江刺郡・胆沢郡、家衡には北の岩手郡・紫波郡・稗貫郡が与えられたとされます。

応徳三年(1086年)、この裁定に不満を持った家衡は、清衡の館を襲撃します。清衡の妻子一族はすべて殺されますが、清衡自身は生き延び、源義家の助力を得て家衡に対抗します。


後三年合戦絵詞(東京国立博物館)

●沼柵の戦い

同・応徳三年(1086年)、源義家と清衡は沼柵に籠もった家衡を攻撃しますが、季節は冬であり、充分な攻城戦の用意が無かった義家・清衡軍は敗れ去ります。

家衡の叔父にあたる清原武衡は、家衡勝利の報を聞いて家衡のもとに駆けつけ、家衡が義家に勝ったのは武門の誉れとして喜びます。家衡・武衡軍は、武衡の提案により、難攻不落といわれる金沢柵へ移ります。

◆これ以下の図は、東京国立博物館所蔵「後三年合戦絵詞」です。


後三年合戦絵詞(東京国立博物館)

●金沢柵の戦い(一)

寛治元年(1087年)九月、義家・清衡軍の本隊が国府を出立し、金沢柵に至ります。この時、義家は雁行の乱れによって武衡が放った伏兵を知り、義家の兵がこれを駆逐します。


後三年合戦絵詞(東京国立博物館)

●金沢柵の戦い(二)

義家・清衡軍は金沢柵に拠った家衡・武衡軍を攻めますが、なかなか城を落とすことができません。義家の兵は、働きに応じて日ごとに剛臆の座を定め、心の励みとします。城の守りが固いことを見た吉彦秀武は、義家に兵糧攻めを進言します。


後三年合戦絵詞(東京国立博物館)

●金沢柵の戦い(三)

金沢柵に義家・清衡軍による包囲網が敷かれ、兵糧攻めが始まると、戦線は膠着状態が続きます。武衡は義家に使いを送り、互いに長刀の打手一人を出して対決させることを提案します。武衡は城から亀次を出し、義家は陣から鬼武を出します。鬼武の長刀にかかって、亀次の頭が落ちます。


後三年合戦絵詞(東京国立博物館)

●金沢柵の戦い(四)

亀次の首を争って、両軍の間に戦いが始まります。


後三年合戦絵詞(東京国立博物館)

●金沢柵の戦い(五)

義家の兵が数で優り、城から出た兵はことごとく討たれます。


後三年合戦絵詞(東京国立博物館)

●金沢柵の戦い(六)

兵糧攻めは冬に至り、飢えに苦しむ城からは、下女・小童らが出てきます。包囲の兵たちは道をあけてこれを通したので、さらに多くの者たちが続きます。これを見た吉彦秀武は、城を降る下女・小童の殺害を義家に進言します。


後三年合戦絵詞(東京国立博物館)

●金沢柵の戦い(七)

ついに糧食の尽きた家衡・武衡軍は、金沢柵に火をつけて敗走します。義家・清衡軍は殺戮と略奪を恣にします。殺された男の頭は鉾に刺されて先に行き、捕えられた女は涙を流して後に従います。

武衡は城中の池に潜んでいるところを捕らえられ、斬首されます。家衡は下人に身をやつして逃亡を図りますが、討ち取られます。


後三年合戦絵詞(東京国立博物館)

●戦後処理

源義家は謀反を平定したとして、朝廷に家衡・武衡追討の官符を願いますが、朝廷は戦役を私戦であるとしてこれを許しません。陸奥守の任期が終わった義家は、むなしく京へのぼります。

戦役の後、清原氏の旧領はすべて清衡のものとなります。清衡は、実父である藤原経清の姓に復し、奥州藤原氏の祖となります。


◆このページのテキストの作成には、おもにWikipediaを参照しました。ただし、忠実な引用ではない場合があります。

◆前編「前九年の役」もご参照ください。


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