十字軍


■序説:十字軍遠征

十字軍とは、中世に西欧カトリック諸国が、聖地エルサレムをイスラム諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことです。 西欧側がエルサレムを確保した期間は1099~1187年、および1229~1244年でした。以後二十世紀まで、エルサレムはイスラム側の支配下に置かれます。

十字軍は、西欧諸国が初めて連携して共通の目標に取り組んだ事業でした。しかし、その実態は必ずしもキリスト教の大義に適うものではなく、当時貧しかった西欧から東方の豊かな土地と経済力を得るために参加した者も多かったとされます。

十字軍は、東方の文物が西欧に到来するきっかけとなり、これ以降盛んになる東西の流通は、後のルネサンスの時代を準備することになりました。


■序説:十字軍国家

十字軍以前、十一世紀末の東部地中海沿岸地方では、東ローマ帝国(正教会)とイスラム諸国が大勢を占めていました。そこへ西欧カトリック諸国の騎士や庶民たちが十字軍を編成して攻め込み、十字軍国家とよばれる封建制国家群を成立させました。

第一回十字軍にともなってシリア地方に成立した四つの十字軍国家は、征服地において十字軍の成果を維持するための基盤となりました。


■序説:騎士修道会

騎士修道会とは、軍事力を備えたカトリック修道会のことです。十字軍の時代に、聖地エルサレムの防衛とキリスト教巡礼者の保護・支援を目的として活動しました。

歴史的に特に重視されるのは、三つの騎士団です。

聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団は、十字軍国家における実質的な常備軍としての役割を果たしました。西欧各地に寄進によって数多くの所領を持ち、豊富な財力を背景に、聖地におけるイスラム教徒との戦いに従事しました。

遅れて設立されたドイツ騎士団は、イスラム教徒によって再支配された聖地では思わしい成果を達成できず、東欧に新たな目標を求めました。バルト海南岸に残る異教徒を北方十字軍の名目で征服し、ドイツ騎士団国を展開します。


■クレルモン教会会議(1095年)

十字軍遠征の発端となったのは、トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア地方を占領された東ローマ帝国の皇帝アレクシオス一世コムネノスが、1095年にローマ教皇ウルバヌス二世に救援を依頼したことです。

その際、皇帝アレクシオスは、異教徒であるイスラム教国からの聖地エルサレムの奪還を訴えました。ただし、アレクシオスが要請したのは、東ローマ帝国への傭兵の提供であって、十字軍のような独自の軍団の派遣ではありませんでした。

教皇ウルバヌス二世は、1095年11月にクレルモンで開催された教会会議の最後に、東方キリスト教国の苦難を訴え、異教徒に対する聖戦を呼びかけ、十字軍へ参加した者は罪が許されると宣言しました。これを受けて、ヨーロッパ各地の諸侯や騎士は遠征の準備を始めました。

図は、15世紀の細密画「クレルモン教会会議で説教する教皇ウルバヌス二世」です。


■民衆十字軍(1096年)

十字軍の熱狂は民衆にも伝染し、1096年、正規の第一回十字軍が出発する数か月前にフランスで、アミアンの隠者ピエールに率いられた民衆や下級騎士の軍勢四万人がエルサレムを目指して出発しました。

民衆十字軍は東進の途上でユダヤ人を各地で虐殺し、ハンガリー王国や東ローマ帝国内で衝突を繰り返しながら小アジアに上陸しました。

しかし、統制の取れていない上に軍事力も弱い民衆十字軍は、ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン一世によって蹴散らされ、多くのものは殺されるか奴隷となりました。ピエールらごく一部は生き延び、第一回十字軍に合流しました。

図は、15世紀の細密画「ニカイア近郊における民衆十字軍の壊滅」です。


■第一回十字軍(1096年~1099年)

西欧各地から出発した諸侯は、1096年12月には、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに集結しました。

ここから十字軍は、ニカイア攻城戦やドリュラエウムの戦いなどでイスラム軍を撃破し、アナトリア地方からシリア地方へと進軍しました。途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略し、虐殺・凌辱・略奪を行いながらエルサレムを目指しました。

ブルゴーニュ伯ボードゥアンは、東方のユーフラテス川上流部のエデッサに分派して進軍し、1098年にエデッサ伯国を設立しました。

本隊は1097年から1098年にかけてシリア北部の大都市アンティオキアで攻城戦に勝利しました。将軍の一人であるボエモンがここにとどまって、アンティオキア公ボエモン一世となりました。

残る本隊はレーモン・サン・ジルとゴドフロワ・ド・ブイヨンらに率いられてなおも南下し、1099年、ついにエルサレムの征服に成功しました。エルサレムにおいても十字軍は城内のイスラム教徒やユダヤ教徒の虐殺と略奪を行いました。

その後、ゴドフロワ・ド・ブイヨンがエルサレム王となり、レーモン・サン・ジルは海岸部のトリポリ伯となりました。

これらの結果、シリア地方にエデッサ伯国、アンティオキア公国、エルサレム王国、トリポリ伯国の主要四国をはじめとするいくつかの十字軍国家がつくられました。

図は、13世紀の細密画「エルサレム攻城戦」です。


■第二回十字軍(1147年~1148年)

シリア地方では、十字軍国家のキリスト教徒と、群小都市のイスラム教徒が共存する状態がしばらく続いていましたが、やがてイスラム教徒が盛り返します。

1144年に、セルジューク朝傘下のモースルの太守ザンギーが、エデッサ伯国を占領しました。この知らせを受けたローマ教皇エウゲニウス三世は、聖地救援の十字軍を呼びかけます。

名説教家クレルヴォーのベルナルドゥスが教皇の依頼により各地で勧誘を行い、フランス王ルイ七世、ドイツ王コンラート三世をはじめとした、多くの従軍者が集まりました。

しかし、第二回十字軍は全体として統制がとれず、フランス王とドイツ王は別々に進軍して、エルサレムにたどり着いたものの、大きな戦果を挙げることなく撤退しました。

図は、「ヴェズレーにおけるルイ七世」です。フランス中東部ブルゴーニュ地方のこの地で説教家ベルナルドゥスが第二回十字軍への勧誘を行いました。


■ヒッティーンの戦い(1187年)

イスラムの英雄サラーフッディーン(サラディン)は、1169年にエジプトにアイユーブ朝を創設し, 1174年にシリアを併合して、広大な支配圏を築き上げました。

サラディンは、1187年7月にヒッティーンの戦いで現地の十字軍国家の主力部隊を壊滅させ、10月にはおよそ90年ぶりにエルサレムをイスラム側に奪還しました。

その後もサラディン軍は快進撃を続け、同年中には十字軍国家の多くがアイユーブ朝の手に落ちました。残されたのはアンティオキア、トリポリ、トルトザ、ティルスの四都市とクラック・デ・シュヴァリエなど若干の要塞だけでした。

図は、15世紀の細密画「クレッソン泉の戦い」です。ヒッティーンの戦いの二か月前の小規模な戦闘で、聖ヨハネ騎士団・テンプル騎士団の両総長が率いる連合軍がサラディン軍に大敗を喫し、聖ヨハネ騎士団総長は討死、テンプル騎士団総長は逃亡します。


■第三回十字軍(1189年~1192年)

サラーフッディーン(サラディン)の攻勢を受け、ローマ教皇グレゴリウス八世が聖地再奪還のための十字軍を呼びかけました。

これに応じて、神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世(赤髭王)、イングランド王リチャード一世(獅子心王)、フランス王フィリップ二世(尊厳王)などが参加しました。

十字軍の第一陣として出発したフリードリヒ一世は、1190年にキリキアのサレフ川で溺死してしまい、その軍勢は早くも統制を失います。

後続のイングランド軍とフランス軍は、1191年にアッコンを奪還しました。その後、フィリップ二世は帰国し、リチャード一世がサラディンと休戦協定を結んだことで、聖地エルサレムの奪還は成りませんでした。

図は、フィリップ・ジェイムズ・ド・ラウザーバーグ作「パレスチナのリチャード一世」です。


■第四回十字軍(1202年~1204年)

ローマ教皇インノケンティウス三世の呼びかけにより実施されました。エルサレムではなく、イスラム教徒の本拠地であるエジプト(アイユーブ朝)のカイロを海路から攻撃する計画が立てられました。その輸送を請け負ったのはヴェネツィア商人でした。

1201年に十字軍参加者はヴェネツィアに集結を始めますが、船賃を調達できない事態となり、かつてのヴェネツィア領で当時はハンガリー王保護下にあったザラを攻略することにより、船賃を補填することになりました。

カトリック教徒の都市であるザラを攻略したことで、教皇インノケンティウス三世は激怒し、十字軍を破門しますが、十字軍からの弁明を受けて破門を解きました。

ところがここで、十字軍の陣営を東ローマ帝国の亡命皇子アレクシオスが訪ねてきて、帝位獲得の助力を願い出ます。魅力的な成功報酬が提示され、十字軍は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルへ向かいます。

十字軍は、1203年に第一回攻撃を行い、亡命皇子をアレクシオス四世として即位させますが、アレクシオスは成功報酬を支払えなかったばかりか、親族に殺害されてしまいます。

十字軍は、1204年に第二回攻撃を行い、コンスタンティノープルを征服します。この際、十字軍によるコンスタンティノープル市民の虐殺や掠奪が行われました。

十字軍はラテン帝国を建国し、フランドル伯ボードゥアンが皇帝になります。東ローマ帝国はいったん断絶しますが、各地に亡命政権を樹立し、1261年に帝国を復活します。

教皇インノケンティウス三世は、コンスタンティノープル攻撃を怒りますが、征服後は東西教会の統合を祝福しました。その後、教皇は十字軍にエジプトへの出立を促しますが、彼らは獲得した領土に居座って、再び出立することはありませんでした。

図は、ウジェーヌ・ドラクロワ作「十字軍のコンスタンティノープル入城」です。


■第五回十字軍(1218年~1221年)

ローマ教皇ホノリウス三世の呼びかけに、ハンガリー王アンドラーシュ二世、オーストリア公レオポルト六世らが応じました。彼らは、1217年にアッコンに到着し、エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌらと合流しました。

十字軍はシリアにおいてイスラム勢力と小規模の戦闘を行いますが、ほとんど成果を挙げられず、ハンガリー王アンドラーシュ二世は帰国します。

オーストリア公レオポルト六世やエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌは、エルサレムを奪回して維持するには、アイユーブ朝の本拠地であるエジプトを攻略する必要があると判断しました。

十字軍は、1218年にエジプトの海港であるダミエッタを包囲し、1219年に占領します。この間、アイユーブ朝では、スルタンのアル・アーディルが死去し、息子のアル・カーミルが跡を継ぎます。

ダミエッタ占領後、教皇使節ペラギウスが十字軍の実権を握り、1221年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世からの援軍を受けてカイロに進撃します。しかし、十字軍はイスラム軍に敗れ、ダミエッタがイスラム側に返還され、エジプト攻略は失敗に終わります。

図は、コーネイリス・クラース・ヴァン・ヴィーリンゲン作「ダミエッタ攻略」です。


■第六回十字軍(1228年~1229年)

ローマ教皇ホノリウス三世は、十字軍実施を条件に皇帝戴冠を認可した神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世に対して、度々遠征を催促しましたが、実施されませんでした。

新たに教皇となったグレゴリウス九世は、この延期を誓約違反としてフリードリヒ二世を破門します。フリードリヒ二世は破門を解くために教皇と交渉しますが成功せず、1228年になって破門されたまま十字軍に出発しました。

破門された皇帝による十字軍には、参加をためらう者も少なくありませんでした。フリードリヒ二世はアッコンに到着しますが、そこでも聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団は皇帝に従わず、現地諸侯も協力に消極的でした。

しかし、かねてからアイユーブ朝との関係を持っていたフリードリヒ二世は、スルタンのアル・カーミルとの交渉により、戦闘を交えることなく1229年に平和条約を締結し、エルサレムの統治権を手に入れました。

教皇グレゴリウス九世は、破門された皇帝フリードリヒ二世がエルサレム王となったことを口実に、イタリアにおいて破門皇帝に対する十字軍を宣言し、軍隊を神聖ローマ帝国領に侵攻させました。フリードリヒ二世は現地に代官を置いて帰国します。

図は、14世紀の細密画「フリードリヒ二世と会見するアル・カーミル」です。


■第七回十字軍(1248年~1249年)

十字軍と平和条約を締結したアル・カーミルの死後、1244年にエルサレムがイスラム側に攻撃されて陥落し、キリスト教徒二千人余りが殺されました。これを受け、1248年にフランス王ルイ九世(聖王)が十字軍を起こします。

ルイ九世も、第五回や第六回の十字軍と同じく、イスラム教国の中で最大の勢力であるエジプトへと遠征し、1249年に海港ダミエッタを占領します。

ルイ九世はさらに、南の首都カイロを目指しますが、1250年のマンスーラの戦いにおいてアイユーブ朝のサーリフ(サラディン二世)に敗北して捕虜になります。

釈放交渉の途中でサーリフは死去し、サーリフの遺児の政権は軍人集団であるマムルークのクーデターによって打倒されます。ルイ九世は、新たに成立したマムルーク朝に莫大な賠償金を払って、釈放されました。

図は、「聖王ルイのニコシア到着」です。第七回十字軍が出発した1248年の場面で、ニコシアは十字軍国家キプロス王国の首都でした。


■第八回十字軍(1270年)

マムルーク朝スルタンとなったバイバルスの元で、イスラム側は攻勢を強めます。バイバルスは1268年に、アンティオキアを陥落させて住民のすべてを殺害または奴隷にし、アンティオキア公国を完全に滅亡させました。

フランス王ルイ九世は、健康の不調で先が長くないと感じ、死ぬ前に再び十字軍を起こすことを望みました。1270年に出発し、弟で野心家のシャルル・ダンジューの提案を受けて北アフリカのチュニスを目指しますが、途上で死去します。

図は、ジャン・フーケ作「チュニスの戦いとルイ九世の死」です。


■第九回十字軍(1271年~1272年)

第八回十字軍の継続として、独立した十字軍とは見なさない場合もあります。

1271年にイングランド王太子エドワード(後のイングランド王エドワード一世)が参戦して、フランス王ルイ九世の弟シャルル・ダンジューと共にアッコンに向かいますが、マムルーク朝の勢力の前に成果を収めず撤退しました。

図は、ジャン・フーケ作「フィリップ四世に臣従するエドワード一世」です。第九回十字軍から15年後の1286年の場面です。フランス王フィリップ四世はルイ九世の孫にあたり、策謀によってテンプル騎士団を壊滅させたことで悪名を残しています。


■十字軍国家の壊滅(1291年)

マムルーク朝の歴代スルタンの攻勢によって、シリア地方における十字軍国家は縮小の一途をたどります。

1268年のアンティオキア滅亡に続いて、1289年にはトリポリ伯国が滅亡し、1291年にはアッコンが陥落して残余の都市も掃討され、シリア地方の十字軍国家は全滅しました。

図は、13世紀ないし14世紀の作とされる「トリポリ攻城戦」です。群像の中心として描かれている女性は、トリポリ伯ボエモン七世の妹ルシアとされます。


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