聖ヨハネ騎士団


■聖ヨハネ騎士団

聖ヨハネ騎士団は、十字軍の時代に聖地エルサレムで設立された騎士修道会(軍事力を備えたカトリック修道会)です。テンプル騎士団・ドイツ騎士団と並んで、三大騎士修道会のひとつに数えられます。

日本語では「病院騎士団」「ホスピタル騎士団」などとも表記されます。修道会としての正式名称は「エルサレムの聖ヨハネ病院兄弟会」を意味します。

聖ヨハネ騎士団は、十二世紀から十三世紀にかけて、テンプル騎士団と共に十字軍国家における実質的な常備軍としての役割を果たしました。西欧各地に寄進によって数多くの所領を持ち、豊富な財力を背景に、聖地におけるイスラム教徒との戦いに従事しました。

十三世紀末にシリア地方における十字軍の領土が完全に失われると、聖ヨハネ騎士団は海軍となってイスラム教徒との戦いを続け、本拠地を移すのに従って「ロードス騎士団」および「マルタ騎士団」と呼ばれるようになります。


■聖ヨハネ騎士団の成立

聖地エルサレムには、西暦七世紀にローマ教皇グレゴリウス一世が創設した、キリスト教巡礼者のための病院がありました。

1005年、エジプトを支配するファーティマ朝六代カリフ・ハーキムが、異教徒迫害の際にこの病院も破壊してしまいました。

1023年、イタリアのアマルフィとサレルモの商人たちが、七代カリフ・ザーヒルの許可を得て、エルサレムの洗礼者ヨハネ修道院の跡に病院を再建しました。

1099年、第一回十字軍の後に、この病院において、アマルフィもしくはプロヴァンス出身とされるジェラール・タンクによって修道会が設立されました。

1113年、教皇パスカリス二世は、ジェラール・タンクに修道会としての公式な認可を与えました。

修道会は、当初はエルサレムで巡礼者の介護に専念していましたが、やがて武装して巡礼者を警護するようになり、ついに本格的な軍隊へと成長していきました。

図は、ローラン•カーズ作「エルサレムの聖ヨハネ騎士団の創設者ジェラール・タンク」です。 十八世紀の銅版画です。


■十字軍国家の防衛

聖ヨハネ騎士団は、テンプル騎士団とともに、十字軍国家の防衛の主力となりました。 聖ヨハネ騎士団だけで、二つの大要塞(本拠としたクラック・デ・シュヴァリエ、海辺にあるバニヤースのマルガット城)と、140の砦を守っていました。

写真(Wikimedia Commonsより)は、「クラック・デ・シュヴァリエ」です。騎士の砦という意味で、現在のシリアに位置します。


■アッコン陥落

1187年にエルサレムが陥落した後も、聖ヨハネ騎士団はトリポリやアッコンを守備していました。

1291年にアッコンが陥落すると、聖ヨハネ騎士団はキプロス島に逃れました。この後は、海軍(実態は海賊)となってイスラム勢力と戦います。

図は、ドミニク・ルイ・パプティ作「アッコン攻城戦」です。1291年の戦闘で城壁を防衛する聖ヨハネ騎士団の司令官ギヨーム・ド・クレルモンが描かれています。


■ロードス騎士団

1309年、聖ヨハネ騎士団は東ローマ帝国領であったロードス島を奪い、キプロス島からここに本拠地を移しました。これ以降、ロードス騎士団と呼ばれるようになります。

1312年、テンプル騎士団の資産が没収されたとき、かなりの部分が聖ヨハネ騎士団に与えられました。また、中東のイスラム教徒と戦う主要な唯一の騎士修道会となったため、西欧からの多額の寄進を一身に受けるようになります。

写真(Wikimedia Commonsより)は、ロードス島の「騎士団長の居城」です。


■ロードス騎士団の戦い

1444年、エジプト(ブルジー・マムルーク朝)の艦隊がロードス島に現われます。首都が包囲されますが、騎士団は撃退に成功しました。

1480年、ロードス島はオスマン帝国のメフメト二世の包囲攻撃を受けますが、騎士団はこれも撃退しました。

1522年、オスマン帝国のスレイマン一世(大帝)が四百隻の船団と二十万人の兵でロードス島に来襲します。騎士団は、六か月の防衛戦の後、ついにロードス島を明け渡してシチリア島に撤退しました。

図は、「ロードス攻城戦」です。1480年の戦闘が描かれています。


■マルタ騎士団

再び本拠地をなくした騎士団は、教皇クレメンス七世と神聖ローマ皇帝カール五世の斡旋により、シチリア王からマルタ島を借りることになりました。賃貸料は「毎年一羽のマルタの鷹」とされました。これ以降、マルタ騎士団と呼ばれるようになります。

騎士団は、ロードス島のときと同様に、イスラム教徒やヴェネツィアのユダヤ人に対し海賊行為を行い、マルタ島はイスラム教徒やユダヤ人の奴隷売買の中心地となりました。

写真(Wikimedia Commonsより)は、マルタ島の「サンタンジェロ要塞」です。


■マルタ騎士団の戦い

1565年、騎士団は再びオスマン帝国の大艦隊に襲われますが、スペインの救援と、スレイマン一世の死(1566年)によって、辛うじて防衛に成功しました。

1571年、オスマン帝国海軍と、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍が、ギリシアのコリント湾口で対戦します(レパントの海戦)。マルタ騎士団もスペイン艦隊と共に戦いました。西欧側が勝利して、オスマン帝国の地中海進出に歯止めをかけました。

図は、「スペイン艦隊(アルマダ)のガレアス船」です。


■宗教改革以後のマルタ騎士団

十六世紀に宗教改革が盛んになると、西欧各地の騎士団領は没収されるようになり、騎士団の力と存在意義は次第に失われていきました。

十七世紀には、騎士団はロシア海軍やフランス海軍の一部として組み込まれるようになりました。

1798年、ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征の際にマルタ島を奪います。根拠地を失った騎士団は正教国家であるロシア帝国を頼り、1801年、ロシア皇帝パーヴェル一世を騎士団総長に選任しました。

1803年、再びカトリックの総長を選任しますが、これ以降は求心力を失い、各地の支部が独自に活動するようになります。

1834年、本部をローマに移します。現在の正式名称は「ロードスおよびマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」を意味します。

図は、ウラジーミル・ボロヴィコフスキー作「ロシア皇帝パーヴェル一世の肖像」です。


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