テンプル騎士団


■テンプル騎士団

テンプル騎士団は、十字軍の時代に聖地エルサレムで設立された騎士修道会(軍事力を備えたカトリック修道会)です。聖ヨハネ騎士団・ドイツ騎士団と並んで、三大騎士修道会のひとつに数えられます。

日本語では「神殿騎士団」「聖堂騎士団」などとも表記されます。修道会としての正式名称は「キリストとエルサレムのソロモン神殿の貧しい戦友たち」を意味します。

テンプル騎士団は、十二世紀から十三世紀にかけて、聖ヨハネ騎士団と共に十字軍国家における実質的な常備軍としての役割を果たしました。西欧各地に寄進によって数多くの所領を持ち、豊富な財力を背景に、聖地におけるイスラム教徒との戦いに従事しました。

十三世紀末にシリア地方における十字軍の領土が完全に失われると、テンプル騎士団の軍事活動は停滞します。十四世紀初、騎士団の資産を狙ったフランス王フィリップ四世の謀略によって壊滅し、教皇庁による異端裁判で正式に解体されました。


■テンプル騎士団の成立

第一回十字軍が1099年に聖地エルサレムを奪還して後、十字軍国家のひとつであるエルサレム王国が設立され、多数のキリスト教巡礼者たちが聖地へ向かって旅をしました。

しかし、エルサレム市街は治安が比較的良好に維持されていたものの、十字軍国家のそれ以外の場所は危険な状態でした。海港ヤッファから内陸のエルサレムへ向かう街道には盗賊があふれ、巡礼者たちは日常的に、時には一度に何百人もが虐殺されました、

テンプル騎士団の正確な設立時期は不詳とされますが、1119年頃、ユーグ・ド・パイヤンとゴドフレー・ド・サンオメールを始めとする九人のフランス人騎士たちが、こうした巡礼者の警護を目的とした修道会を結成するために集まりました。

ユーグ・ド・パイヤンは、エルサレム王ボードゥアン二世とエルサレム総大司教ヴァルムントに、修道会の設立を願い出ます。王と総大司教は、おそらく1120年1月のナーブルスの評議会で、要望を承認しました。

図は、ギヨーム・ド・ティールの年代記の挿画「ユーグ・ド・パイヤンとゴドフレー・ド・サンオメールにソロモン神殿を与えるボードゥアン二世」です。右端の人物はエルサレム総大司教ヴァルムントです。


■ソロモン王のエルサレム神殿

エルサレム王ボードゥアン二世はさらに、十字軍がイスラム教徒から占領したアル=アクサー・モスクを、修道会に本部として与えました。

当時の伝承によれば、アル=アクサー・モスクが建つ神殿の丘は、ソロモン王のつくったエルサレム神殿があった場所とされていました。

このことから、修道会は「キリストとエルサレムのソロモン神殿の貧しい戦友たち」もしくは「神殿(テンプル)騎士団」と名付けられました。

写真(Wikimedia Commonsより)は、エルサレムの「神殿の丘」です。画面の中央に岩のドーム、左端にアル=アクサー・モスクが見えます。


■ローマ教皇の認可

九人の騎士を擁する修道会は、資金が欠乏し、存続には寄付が頼りでした。テンプル騎士団の「一頭の馬に乗る二人の騎士」の標章(エンブレム)は、修道会の窮状を訴えたものとされます。伝承によれば、初代総長ユーグ・ド・パイヤンと盟友ゴドフレー・ド・サンオメールは、二人で一頭の馬を共用していました。

しかし、貧困は長くは続きませんでした。九人の騎士のひとりアンドレ・ド・モンバールの甥で宗教界の要人であったクレルヴォーのベルナルドゥスが、修道会の強力な援護者となったからです。

ベルナルドゥスの尽力によって、1129年(当時の現地の暦法では1128年)にフランスのトロアで開催された教会会議において、教皇ホノリウス二世はテンプル騎士団を修道会として公式に認可しました。

テンプル騎士団は、公式の認可を得たことで、西欧キリスト教世界における特権的な慈善団体となりました。聖地での戦闘を援助したいという熱意をもった人々から金銭・土地・事業が寄進され、貴族の子弟たちが騎士団に入会しました。

1139年に教皇インノケンティウス二世がテンプル騎士団にもうひとつの大きな特権を与えます。それは、地域的法律の順守義務の免除でした。すなわち、国境通過の自由、課税の免除、教皇以外の権威への服従義務の免除などが付与されました。

写真(Wikimedia Commonsより)は、「一頭の馬に乗る二人の騎士」を意匠としたテンプル騎士団の封蝋です。


■モンジザールの戦い(1177年)

テンプル騎士団は、明確な目的と豊富な資産が備わったことで、急速に成長していきました。十字軍の主要な戦闘において、テンプル騎士団はしばしば先陣を務めました。軍馬に乗った重装の騎士たちの突撃は、敵の戦線を打ち破るのに効果的だったからです。

テンプル騎士団が勝利に寄与したことで特に有名なのは、1177年のモンジザールの戦いです。この戦闘では、ハンセン病を病んでいた十六歳のエルサレム王ボードゥアン四世がキリスト教軍を率い、アイユーブ朝スルタンのサラディンの大軍に攻撃を仕掛けました。

テンプル騎士団の500名ほどの騎士たちが数千名の歩兵を援護し、サラディンの軍勢の26,000名以上の兵士を打ち破りました。

図は、シャルル・フィリップ・ラリヴィエレ作「モンジザールの戦い」です。


■経済基盤の構築

修道会の本来の任務が軍事活動であっても、実際に戦闘を行うのは相対的に少数の会員だけでした。大多数の会員は、騎士たちを支援するための兵站および経済基盤の構築にあたりました。

テンプル騎士団は多くの寄進を集めたことによって十二世紀から十三世紀にかけて莫大な資産をつくり、欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有しました。そこに教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有していました。

さらに、騎士団は保有する資産の多くを換金し、その管理のために財務システムを発達させました。後に発生するメディチ家などによる国際銀行の構築に先立ち、独自の国際的財務管理システムを所有していたとされます。

図は、「チェスを指すテンプル騎士団の会員たち」です。カスティーリャ王アルフォンソ十世の命で編纂された『チェス、賽子、双六の書』の挿画です。


■ヒッティーンの戦い(1187年)

十二世紀後半になると、十字軍をめぐる潮流が反転を始めます。イスラム教徒がサラディンのような強力な指導者のもとで統一していくのに対し、キリスト教徒は派閥間の対立を起こすようになります。

テンプル騎士団は、同じキリスト教の騎士修道会である聖ヨハネ騎士団およびドイツ騎士団と折に触れて反目し、繰り返される内紛は聖地におけるキリスト教徒の政治的および軍事的地位を弱めました。

1187年5月のクレッソン泉の戦いでは、サラディンが本格的な戦闘を挑んできたのを見た聖ヨハネ騎士団総長ロジェ・ド・ムーランは撤退を進言します。これに対しテンプル騎士団総長ジェラール・ド・リドフォールは、ムーランを卑怯者と罵って、無謀な突撃を繰り返しました。その結果は190騎中187騎が戦死という大敗でした。死者の中にはムーランも含まれていましたが、リドフォールは逃げ出して生き延びました。

同年7月のヒッティーンの戦いでは、十字軍の主力がサラディンの軍に包囲され、最終的にエルサレム王ギー・ド・リュジニャンやテンプル騎士団総長ジェラール・ド・リドフォールをはじめ十字軍の多くが捕虜となり、サラディンの天幕の前に引き出されました。

十字軍の主力を壊滅させたサラディンは快進撃を続け、アッコン、ナーブルス、ヤッファ、トロン、シドン、ベイルート、アスカロンなどの諸都市を次々と奪回しました。 同年10月にはサラディンが聖地エルサレムを陥落させ、エルサレム王国は滅亡寸前まで追い込まれました。

図は、シリアの画家サイード・ターシンにより1954年に描かれた「ヒッティーンの戦いの後のサラディンとギー・ド・リュジニャン」です。


■第三回十字軍

ヒッティーンでの十字軍の壊滅的な敗北とイスラム教徒による聖地エルサレムの奪回が西欧に伝えられると、それが直接的な動機となり、第三回十字軍の遠征が行われました。

テンプル騎士団は、遠征軍の指揮者であるフランス王フィリップ二世(尊厳王)およびイングランド王リチャード一世(獅子心王)と共闘しました。

1191年7月、十字軍はアッコン奪回に成功しました。この後、フィリップ二世は帰国し、十字軍はリチャード一世のもとでサラディンと対決することになります。エルサレムを攻撃するためには、まず地中海沿岸の港町ヤッファを奪取する必要がありました。

同年9月、サラディンはヤッファの北、アルスフで十字軍を迎え撃ちます。十字軍は、後衛の聖ヨハネ騎士団、主力のリチャード一世軍、前衛のテンプル騎士団が一斉にサラディン軍を強襲し、アルスフの戦いに勝利しました。

リチャード一世はヤッファを占領し、エルサレム攻撃のための準備を開始しました。しかし、守りの固められたエルサレムの奪回はついに実現できませんでした。

1229年、第六回十字軍によってエルサレムは一時的にキリスト教徒の手に戻りますが、それはテンプル騎士団の戦果ではなく、神聖ローマ皇帝とスルタンの交渉の成果でした。平和条約を締結したスルタンが死去すると、待ち受けていたかのようにイスラム教徒がエルサレムを奪回します(1244年)。

図は、ジェームズ・ウィリアム・グラス作「エルサレムへ向けて行軍中のリチャード獅子心王」です。


■最後の総長ジャック・ド・モレー

1291年、アッコンが陥落して残余の都市も掃討され、シリア地方の十字軍国家は全滅しました。テンプル騎士団は本部をキプロス島に移転することを強いられます。

1292年、ジャック・ド・モレーがテンプル騎士団の総長に就任します。彼の最初の仕事は欧州各地を巡って騎士団のための援助を募り、新たな十字軍を編成することでした。

モレーは、新任の教皇ボニファティウス八世に面会しました。教皇は、テンプル騎士団が聖地で所持していたのと同じ諸特権をキプロス島でも所持することを認可しました。

ナポリ王カルロ二世とイングランド王エドワード一世も、テンプル騎士団への免税の継続や、新しい軍隊の構築に向けた将来の援助など、各種の支援を約束しました

図は、フランソワ・マリウス・グラネ作「ジャック・ド・モレーの叙階式」です。モレーがテンプル騎士団に入会するための叙階式は、彼が二十歳頃の1265年に、フランス中東部ブルゴーニュ地方のボーヌ管区で行われました。


■幻の聖地エルサレム奪回

テンプル騎士団は、聖ヨハネ騎士団と連携して、なおも、聖地への足場を得るための攻撃を試みます。

1298年または1299年、テンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーは、聖ヨハネ騎士団総長と共に、アルメニアにおけるマムルーク軍の侵略を撃退しようと試みます。しかしこの軍事行動は、短期間で失敗に終わります。

1300年、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団は、シリア西部の地中海に面した港湾都市トルトーザの占領を企てます。トルトーザの近くのアルワード島を占拠しますが、島はすぐに奪回されてしまいます。

図は、ヴェルサイユ宮殿所蔵のクロード・ジャカン作「ジャック・モレーによる1299年のエルサレム占領」です。フランスで流布した風説に基づいて、1846年にこの絵の注文が出されました。実際には、このような戦闘が行われたことはなく、エルサレムがテンプル騎士団の手に戻ることはありませんでした。


■フランス王フィリップ四世の策謀

十四世紀初、十字軍はすでに聖地への最後の足掛かりを失い、テンプル騎士団の軍事的役割も重要性を失っていきました。

しかし、騎士団はなお膨大な資産と強力な軍事力を保持し、キプロス島に本部を置いて、欧州から中東にいたる広い地域に特権によって守られた「国家の中の国家」を形成していました。

この時、中央集権化をすすめていたフランス王フィリップ四世(端麗王)は、悪化した国家財政を立て直すため、テンプル騎士団の資産に目をつけます。そして、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団を合併し、自らがその指導者の座につくことを着想します。

フィリップ四世はテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーに聖ヨハネ騎士団との合併を提案しますが、これは即座に拒絶されます。そこで王は、どのようにテンプル騎士団の資産を没収するかを検討します。

図は、「端麗王フィリップ四世」です。


■テンプル騎士団の壊滅

1307年10月13日の金曜日、フィリップ四世はフランス全土においてテンプル騎士団の会員を何の前触れもなく一斉に逮捕します。異端的行為など百以上の不当な罪名をかぶせたうえ、罪を自白するまで拷問を行いました。

テンプル騎士団は異端の汚名を着せられ、資産は聖ヨハネ騎士団へ移すこと、以後の活動を全面的に禁止することが決定されました。

1312年、ローマ教皇クレメンス五世は、フィリップ四世の意をうけて開いたヴィエンヌ公会議で、正式にテンプル騎士団の禁止を決定しました。教皇はフランス以外の国においてもテンプル騎士団を禁止することを通告しましたが、効果はありませんでした。

1314年、資産の没収を終えたフィリップ四世は、口封じのために、投獄されていた指導者たちの処刑を指示しました。テンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーらは、パリ市のシテ島の刑場で、生きたまま火あぶりにされました。

ジャック・ド・モレーは、亡くなる前にフランス王フィリップ四世と教皇クレメンス五世らを呪ったとされます。二人は同年中に急死しました。また、カペー家直系の断絶をも呪ったと言われ、十四年後、実際にフランス王位はヴァロワ家へと継承されました。

図は、十四世紀の年代記の挿画「火刑に処されるテンプル騎士団の会員たち」です。


◇MENU:十字軍シリーズ

講座77 「十字軍
講座78 「聖ヨハネ騎士団
講座79 「テンプル騎士団」/講座79a「テンプル騎士団の聖歌
講座80 「ドイツ騎士団
講座81 「少年十字軍


【グレゴリウス講座について】

当サイトの「グレゴリウス講座」は、関心を持ったテーマをミニプレゼンテーションにまとめることを試みています。内容の妥当性を心がけていますが、素人の判断の域を出ませんので、ご了承ください。

このページの作成には、画像も含め、おもにWikipediaを利用しました。ただし、忠実な引用ではない場合があります。


◇HOME:グレゴリウス講座