ドイツ騎士団


■ドイツ騎士団

ドイツ騎士団は、十字軍の時代にエルサレム王国の港湾都市アッコンで設立された騎士修道会(軍事力を備えたカトリック修道会)です。聖ヨハネ騎士団・テンプル騎士団と並んで、三大騎士修道会のひとつに数えられます。

日本語では「チュートン騎士団」とも表記されます。修道会としての正式名称は「エルサレムのドイツ人の聖母マリアの家兄弟会」を意味します。

ドイツ騎士団は、聖ヨハネ騎士団やテンプル騎士団よりも遅れて十二世紀末に設立されたため、イスラム教徒によって再支配された聖地では思わしい成果を達成できず、十三世紀になると東欧に新たな目標を求めました。

ドイツ騎士団は、プロイセンに残る異教徒を北方十字軍の名目で征服し、ラトビアのキリスト教化を行っていたリヴォニア帯剣騎士団を吸収し、バルト海南岸に騎士団国家「ドイツ騎士団国」を築き上げます。

しかし、ドイツ騎士団はポーランド王国と対立し、十五世紀にタンネンベルクの戦いに敗れて衰えます。十六世紀に騎士団総長がルター派に改宗して、騎士団国家は世俗の領邦のプロイセン公国となります。


■ドイツ騎士団の成立

1143年、教皇ケレスティヌス二世は、エルサレムにあったドイツ人病院の管理を聖ヨハネ騎士団が引き継ぐように命じました。その病院は、フランス語もラテン語も話せないドイツ人の多数の巡礼者や十字軍兵士たちを収容していました。

この「ドイツ人の家」は、公式には聖ヨハネ騎士団の施設となりましたが、教皇はドイツ人自身が院長や修道士になるように指示しました。こうして、十二世紀のエルサレム王国において、ドイツ人主導の宗教施設の伝統が育成されました。

1187年、十字軍国家エルサレム王国の首都エルサレムが陥落し、港湾都市アッコンをはじめとした多くの拠点もイスラム教徒の手に渡りました。

1190年、第三回十字軍がアッコンを奪回します。攻城戦の最中、ドイツ北部の港湾都市ブレーメンやリューベックの商人たちが「ドイツ人の家」の理念を復活させ、アッコン郊外に野戦病院を開設しました。これが、修道会の核となりました。

1192年、教皇ケレスティヌス三世は、修道士たちにアウグスティヌス会の規則を与えることによって、修道会を公認しました。この年に、アッコンはエルサレム王国の臨時首都となります。

1198年、修道会はテンプル騎士団を模範として、総長を頂点とする騎士修道会に再編成されました。修道会は教皇から、エルサレムをキリスト教徒のために奪回し、イスラム教徒から防衛するという十字軍の命令を受けました。

図は、「ドイツ騎士団と教皇ケレスティヌス三世 」です。


■ドイツ騎士団のハンガリー進出

1210年、ヘルマン・フォン・ザルツァがドイツ騎士団の第四代総長に就任します。ザルツァは在任中、神聖ローマ皇帝およびローマ教皇との親密な関係を築き、東欧における騎士団国家の展開を主導します。

1211年、ハンガリー王アンドラーシュ二世が、ハンガリー南東部に居住するクマン人の襲撃に備えるため、ドイツ騎士団にハンガリー進出を要請します。

騎士団は、ハンガリー王からトランシルヴァニアのプルツェンラントを所領として与えられ、植民活動およびクマン人との戦闘に従事しました。ザルツァはやがて、ハンガリー王国から独立した騎士団国家の形成を目指します。

1218年、第五回十字軍の遠征が開始され、ドイツ騎士団は総長ザルツァが自ら軍勢を率いて遠征軍に合流します。

1220年、ドイツ王兼シチリア王フリードリヒ二世が神聖ローマ皇帝に即位します。ローマ教皇ホノリウス三世は、皇帝即位を認可する条件として、フリードリヒに十字軍遠征を実行することを約束させました。

1222年、ザルツァはこの年以降、ローマ教皇庁に対する神聖ローマ皇帝のための仲介役を務めるようになります。教皇ホノリウス三世もザルツァの能力を認め、ドイツ騎士団に、聖ヨハネ騎士団やテンプル騎士団と同等の地位を与えました。

1224年、ザルツァは教皇ホノリウス三世に願って、騎士団の所領プルツェンラントをハンガリー王国から切り離して教皇直轄領とすると宣言させることに成功します。

1225年、この動きに激怒したハンガリー王アンドラーシュ二世は、ローマ教皇の命令を無視し、ドイツ騎士団をトランシルヴァニアから追放します。こうして、ザルツァのハンガリーにおける騎士団国家形成の夢は消え去ります。

写真(Wikimedia Commonsより)は、ドイツ騎士団の第四代総長ヘルマン・フォン・ザルツァの像です。この像は、現在のポーランドの「マルボルクのドイツ騎士団の城」の中ににあります。


■第六回十字軍

1227年、教皇ホノリウス三世が没し、新教皇グレゴリウス九世が即位します。フリードリヒ二世の皇帝即位の条件だった十字軍遠征はいまだ実行されていませんでした。

1228年、グレゴリウス九世は誓約違反を理由にフリードリヒ二世を破門します。フリードリヒは、破門されたまま第六回十字軍を起こしてエルサレムに向かいます。

エルサレムを統治するアイユーブ朝スルタンのアル・カーミルは、アラビア語を介してイスラム文化に深い関心を抱くフリードリヒ二世に興味を抱きます。

1229年2月11日、フリードリヒ二世は血を流すことなく、アル・カーミルとの間にヤッファ条約を締結し、十年間の期限付きでキリスト教徒にエルサレムが返還されました。

しかし、妥協によるエルサレム返還を称えたのは、現地の騎士修道会の中でドイツ騎士団だけでした。聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団は不快感を示しました。

エルサレムに入城したフリードリヒ二世はエルサレム王としての戴冠を望みますが、彼に同行した司祭たちは破門されたフリードリヒへの戴冠を拒みます。

1229年3月18日、フリードリヒ二世は聖墳墓教会でエルサレム王として自らの手で戴冠します。ドイツ騎士団は皇帝の護衛兵として仕え、総長ヘルマン・フォン・ザルツァは皇帝の布告をフランス語とドイツ語で読み上げました。

皇帝フリードリヒ二世の腹心となった騎士団総長ザルツァの助言は帝国全体を動かすほどになり、騎士団は帝国における一大勢力に成長します。

しかし、中東の十字軍国家においては、ドイツ騎士団が聖ヨハネ騎士団やテンプル騎士団のような影響力を持つことはありませんでした。

図は、アーサー・フォン・ランベルク作「皇帝フリードリヒ二世のパレルモの宮廷」です。パレルモは、シチリア王国の首都でした。


■ドイツ騎士団のプロイセン進出

1225年、ハンガリーを追放されたばかりのドイツ騎士団に対し、ポーランドのワルシャワ周辺に勢力を持つマゾフシェ公コンラート一世が、バルト海南岸の異教徒である先住プロイセン人の侵入を防ぐため、クルムラントの防衛を担うよう要請します。

ドイツ騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァは、ハンガリーでの失敗を教訓として、今後のプロイセンでの騎士団国家の形成を正当化するために、神聖ローマ皇帝とローマ教皇への周到な根回しを行います。

1226年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世からドイツ騎士団に「リミニの金印勅書」が与えられます。この特許状は、騎士団に「クルマーラントとプロイセンラントにおける領邦主権者」としての法的地位を認めるもので、騎士団は異教徒である先住プロイセン人の土地を征服・領有する権利を保証されることになりました。

1230年、ローマ教皇グレゴリウス九世からドイツ騎士団に、異教徒たちを打ち倒すことが神の意に適い、罪を贖うことができる救済行為であるとして、武力によるキリスト教化を正当化する教勅が与えられます。

こうして、ドイツ騎士団は先住プロイセン人の土地の征服に着手します。この征服戦争は北方十字軍の一環として位置づけられました。

1237年、ドイツ騎士団は、ラトヴィアの征服事業を進めていたリヴォニア帯剣騎士団を吸収します。これによって騎士団の勢力圏は倍増します。

1241年、ドイツ騎士団は、ルーシ(古代ロシア)のノヴゴロド共和国に侵攻を開始し、プスコフを占領しました。「タタールのくびき」に喘いでいたルーシに、北方十字軍が正教からカトリックへの「剣による改宗」を強制します。

1242年、ドイツ騎士団は、チュード湖(ペイプシ湖)の氷上の戦いでアレクサンドル・ネフスキーが率いるノヴゴロド共和国の軍に大敗し、ルーシから追い返されます。

地図(Wikimedia Commonsより)は、「1260年頃のドイツ騎士団国」です。


■プロイセンの平定とリトアニア大公国の出現

ドイツ騎士団は、1283年にプロイセン全土を平定するまで、50年以上を費やして徐々に征服地を広げ、原住民に異教の信仰を放棄させました。さらに、征服した土地にドイツ人の農民が次々と入植し、ドイツ式の農村が建設されました。

この圧力の前に先住プロイセン人はドイツ人やポーランド人に同化し、民族語である古プロイセン語も消滅に向かいます。

プロイセンの東隣、ラトヴィアの南隣にあたるリトアニアでは、多神教を奉じるリトアニア人の「原リトアニア」と、東方正教会を奉じる東スラヴ人の「ルテニア」とが国家連合を形成して「リトアニア大公国」が出現します。ドイツ騎士団はこの異教徒の強国との間で恒常的な戦闘を続けることになります。

写真(Wikimedia Commonsより)は、ポーランド北部のオルシュティン城の庭に保存されている先住プロイセン人の老女神像「プルスカ・ババ」です。


■聖地からの撤退

第六回十字軍によりイスラム教徒と休戦協定が結ばれ、エルサレムはキリスト教徒の手に戻りました。しかし、アル・カーミルの死後、イスラム教徒の攻勢が再開されます。

1244年、エルサレムがイスラム教徒(エジプトのアイユーブ朝に雇われたホラズム兵)に攻撃されて陥落し、キリスト教徒二千人余りが殺されました。

1271年、アッコン北東の要衝に位置し、ドイツ騎士団が本部としていたモンフォール城が陥落します。騎士団は本部をアッコンに移します。

1291年、アッコンが陥落し、シリア地方の十字軍国家が全滅します。ドイツ騎士団は、本部をヴェネツィアに移します。

図は、カール・フリードリヒ・レッシング作「最後の十字軍士」です。イスラム教徒の勝利とキリスト教徒の敗北による十字軍の終焉を感傷的に描いた作品とされます。


■騎士団国家の最盛期(十四世紀前半)

1309年、ドイツ騎士団は本部をヴェネツィアからマリーエンブルク(現マルボルク)に移します。これによってプロイセンが名実ともに騎士団の本拠地となります。

ドイツ騎士団は、選挙で選ばれる総長を統領として、選挙君主制国家ないし宗教的共和国とも言える統治体制の「ドイツ騎士団国」を築きました。

騎士団国家は十四世紀には最盛期を迎え、騎士団の勃興と同じ時期に経済的に発展し始めた西欧に穀物を輸出し、経済的にハンザ同盟都市と深く結びついていました。

ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)やエルビンク(現エルブロンク)は、ドイツ騎士団の下で貿易都市として発展を遂げました。これらの都市は、大河の河口に位置し、川沿いの穀物を集散して栄えました。

写真(Wikimedia Commonsより)は、「マルボルクのドイツ騎士団の城」です。現在のポーランド北部の都市マルボルクにあります。


■ポーランド王国との対立(十四世紀後半)

十四世紀後半に入ると、ドイツ騎士団の専権的な支配は在地勢力や都市、地方領主などの反感を買うようになります。これらの人々は、ポーランド諸公国が統一されて誕生したポーランド王国を頼るようになりました。

ポーランド王国もまた、ドイツ騎士団が神聖ローマ皇帝の権威を後ろ盾にポーランド国王の権威を蔑ろにし、ポーランド北部のクヤーヴィ、ポモージェ、ドブジュンの諸地方を横領し、マゾフシェにも触手を伸ばしている状況に対して敵対心を募らせていました。

図は、ヴォイチェフ・コサック作「ドイツ騎士団のお務め」です。


■ポーランド・リトアニア連合の脅威

1382年、ハンガリー王とポーランド王を兼ねたラヨシュ一世(ルドヴィク一世)が没し、九歳の娘ヤドヴィガがポーランド王(女性の君主でありながら称号は王)となると、貴族たちはその夫としてリトアニア大公ヨガイラを選びました。

1385年、ヨガイラはキリスト教に改宗し、ヤドヴィガと結婚して、ポーランド王ヴワディスワフ二世として即位しました。これによって三十八歳の夫と十二歳の妻がポーランド王国の共同君主として君臨することになりました。

リトアニアの改宗は、バルト海南岸のキリスト教化をもって存在理念としてきたドイツ騎士団国にとって、存立を脅かす危機となりました。

写真(Wikimedia Commonsより)は、クレヴォの合同四百周年記念碑の「ヤドヴィガとヨガイラの像」です。ポーランド南部の都市クラカウにあります。


■ポーランド王国への臣従(十五世紀)

1410年、ドイツ騎士団はヴワディスワフ二世が率いるヤギェウォ朝ポーランド・リトアニア連合王国とのタンネンベルクの戦い(グルンヴァルトの戦い)に大敗を喫し、西プロイセンを失いました。

十五世紀のドイツ騎士団は、強大なポーランド・リトアニア連合の脅威に晒されます。騎士団は復権に向けて様々な努力を行いますが、圧倒されるばかりでした。

騎士団領内の商業都市は、ポーランド王国から直接の庇護を得ることによって、騎士団からの独立自治権を獲得しました。これら騎士団領内の自治都市は「プロイセン連合」と呼ばれる互助組織を形成して騎士団に対抗しました。

1466年、「第二次トルンの和約」により、ドイツ騎士団は大都市ダンツィヒや首都マリーエンブルクを含む東ポモージェをポーランドに割譲します。残る領土はわずかにケーニヒスベルクを中心とする東プロイセンのみとなりました。

しかも、東プロイセンもポーランド王の宗主権の及ぶ地域と定められ、騎士団総長はポーランド王と封建関係を結ぶ臣下となりました。

図は、ヤン・マテイコ作「グルンヴァルトの戦い」です。


■騎士団国家の終焉(十六世紀初)

1510年、時のポーランド王ジグムント一世の甥であるアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクがドイツ騎士団の新たな総長に選ばれました。

1523年、アルブレヒトはマルティン・ルターと面会して感銘を受け、同調する騎士団員とともに騎士団を離れてルター派に改宗します。

アルブレヒトは、騎士団と対立し、騎士団をプロイセンから追放しました。こうしてカトリック修道会としてのドイツ騎士団は歴史的な役割を終えます。

1525年、アルブレヒトはポーランド王ジグムント一世に改めて臣従の誓いをしてポーランド王の臣下となります。

アルブレヒトの配下の者の所領はすべてポーランド王国の宗主権下に入り、ドイツ騎士団国は、ホーエンツォレルン家を世襲の公とする世俗の領邦である「プロイセン公国」に変わります。

騎士団国家の消滅後も、アルブレヒトに追放されたドイツ騎士団は、ドイツ南部を拠点にカトリック教徒のドイツ人によって維持されました。現在も慈善団体となって存続しています。

図は、ヤン・マテイコ作「ポーランド王ジグムント一世に臣従の誓いを行うアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク」です。


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