少年十字軍


■少年十字軍(子供十字軍)

子供十字軍は、伝統的な物語によれば、ドイツもしくはフランスにおいて神の啓示を受けた少年の呼びかけにより子供たちが中心となって結成された十字軍です。

伝統的な物語を構成するのは、一人の少年が抱いたビジョン、聖地のイスラム教徒を平和的にキリスト教に改宗させたいという願望、地中海へと行進する子供たちの集団、奴隷に売られた子供たちなど、事実の認識と架空の心象とが混ざり合ったような要素です。

時代背景として、第四回十字軍(1202年~1204年)の失敗の後、ローマ教皇インノケンティウス三世が新たな十字軍を編成するために西欧各地に説教師を派遣し、十字軍への参加を煽っていたことが指摘されています。

この出来事の存在そのものを疑問視する立場もありますが、多くの歴史家が認めるようになったのは、十字軍の構成員(もしくは、その主体)は子供ではなく、ドイツやフランスにおける「放浪する貧者」の多様な集団であり、ある者は聖地に到達しようと試み、ある者はそのようなことを全く意図していなかった、という見解です。

より最近の研究によれば、西暦1212年にドイツとフランスにおいて、広い年齢層の人々で構成された二つの別々の集団移動が実際にあったと見られます。そして、後世の年代記編者は、両者の類似性のために、二つの出来事を混同して潤色したと考えられます。

図は、ヴィトルド・ヴォイトキェヴィチ作「子供の十字軍士」です。


■伝統的な物語

昔から伝えられてきた子供十字軍の物語は、多くの変形がありますが、類似の主題を持っています。

フランスもしくはドイツで一人の少年が説教を始め、イエスが自分を訪れ、イスラム教徒を平和的にキリスト教に改宗させるため十字軍を率いるように言われたと訴えます。

一連の前兆や奇跡を通して、少年は多くの信奉者を獲得します。その数は、子供たち三万人にもおよびます。少年は信奉者たちを南の地中海へ向かわせます。少年の信念では、自分たちが到着すると海は分かれ、皆がエルサレムへ行進できるはずでした。しかし、それは起こりませんでした。

二人の商人が、子供たちの望むままに無料の乗船証を与えます。しかし、実は子供たちは残酷な商人たちによってチュニジアへと運ばれて奴隷に売られるか、もしくは、嵐のためにサルディニア島沖のサン・ピエトロ島で船が難破して死んでしまいます。ある者たちは海まで到達できず、飢餓や疲労で死んでしまうか、前進を断念します。この物語が何時の出来事だったかは、誰も知りませんでした。

図は、ヨハンナ・マリー・ボイス作「旅立ち:十三世紀子供十字軍のエピソード」です。


■ドイツの十字軍:ケルンのニコラス

最近の解釈による第一の集団移動では、ドイツのラインラント出身の羊飼いニコラスが、1212年の早春にアルプスを越えてイタリアへ集団を導くことを企てます。

ニコラスは並外れた弁舌能力を持ち、海は信奉者たちの前で干上がり、聖地へ渡ることを可能にすると約束しました。さらにニコラスは、自分たちはイスラム教徒との戦闘を目指すのではなく、イスラム教国はその国民がキリスト教に改宗する時に倒れるのだと明言しました。

ニコラスの弟子たちは「十字軍」の呼びかけを伝道するためにドイツ各地へ向かい、数週間後にケルンに集結しました。群衆は二つの集団に分かれ、別々の道をとってスイスを越えようと企てます。人々の三人に二人がこの凄惨な旅で死に、残りの者の多くは家へ戻りました。

それでも、およそ七千人が八月にイタリアのジェノヴァに到着しました。人々は直ちに港へ行進し、目の前で海が分かれることを期待します。そうならなかった時、多くの者たちはひどく失望しました。少数の者たちは自分たちを裏切ったとニコラスを非難しますが、他の者たちは心を落ち着かせて、神が考えを変えるのを待ちます。彼らには神が最終的にそのようにしないということは考えられなかったからです。

ジェノヴァの政府当局はつつましい集団に感銘を受け、ジェノヴァ市に定住を望む者たちに市民権を授与することを提示しました。十字軍士を自称していた者たちの大多数が、この機会を利用して定住を選びます。

しかし、ニコラスは敗北を認めることを拒否し、ピサへ向けて旅をします。集団は、その途上でも崩壊を続けます。ニコラスと少数の忠実な信奉者たちは、ついに教皇領へ達し、そこでローマ教皇インノケンティウス三世は彼らを優しくもてなしました。

教皇が家へ帰るように勧めると、生き残った者たちは説得に応じて、ドイツへ向けて出発します。しかし、ニコラスはアルプス越えの二度目の企てを乗り切ることはできませんでした。

故郷ではニコラスの父親が逮捕され、ニコラスのせいで肉親を失った家族たちが迫って、父親は絞首刑になりました。

この十字軍の最も熱心な構成員の幾人かは、後にイタリア東部アドリア海沿岸の港湾都市アンコーナおよびブリンディジまでたどり着いたことが報告されています。しかし、聖地まで到達した者はありませんでした。

図は、ヨハン・ヤーコブ・キルヒホフ作「1212年の子供十字軍」です。


■フランスの十字軍:クロイエのエティエンヌ

最近の解釈による第二の集団移動は、フランスの十二歳の羊飼いの少年、クロイエのエティエンヌによって先導されました。

1212年の六月にエティエンヌは、イエスからフランス王に宛てた手紙を持っていると主張しました。エティエンヌに惹きつけられた彼とほぼ同年代の子供たちが大きな集団となりました。そのほとんどの者たちが、神の特別の賜物を持っていると主張し、自分たちには奇跡を起こす力があると考えていました。

エティエンヌは、三万人以上の大人と子供の信奉者を獲得してサンドニ(パリ北部郊外)に行き、そこで奇跡を起こしたとされます。

パリ大学の助言を受けたフランス王フィリップ二世の命令で、人々は帰宅するように要請されます。フランス王としては、ほんの子供に先導された不意の訪問客たちを、まともに相手にする気はありませんでした。しかし、エティエンヌは説得されても思いとどまることなく、修道院の近くで説教を始めました。

エティエンヌは、サンドニからフランスを巡って旅をし、進むにしたがって教説を広め、人々をキリストの預かりものとしてエルサレムへ先導することを約束しました。

教会は懐疑的だったにもかかわらず、多くの大人たちがエティエンヌの教えに感化されました。しかし、最初の三万人のうち半数以上はすでに脱落し、全体の人数は急速に減少していきました。

1212年の六月末に、エティエンヌは、子供を多く含む十字軍士たちをヴァンドームからマルセイユへ導きました。彼らは乞食をすることで生き残りましたが、圧倒的多数は旅の厳しさによって心がくじけ、家族の許へ帰りました。

図は、ギュスターヴ・ドレ作「子供十字軍」です。


■サン・ピエトロ島の子供十字軍遺跡

サン・ピエトロ島は、イタリアのサルディニア島の南西沖に位置します。この島のカルロフォルテという町の郊外には、子供十字軍に関連する伝承を持った教会の遺跡があるということです。

この教会は「新幼子殉教者教会」と呼ばれ、北アフリカへ向かう航海の途上でサン・ピエトロ島の沖で嵐のために難破して死んだ子供十字軍の数百人の子供たちを称えて、十四世紀に建設されたと伝えられています。

図は、1870年に描かれた、サン・ピエトロ島カルロフォルテ郊外の「新幼子殉教者教会」と推定される遺跡です。

【補記一】

幼子殉教者(おさなごじゅんきょうしゃ)は、新約聖書の『マタイによる福音書』第二章にあらわれるエピソードで、新しい王(イエス・キリスト)がベツレヘムに生まれたと聞いて怯えたユダヤの支配者ヘロデ大王がベツレヘムで二歳以下の男児を全て殺害させたとされる出来事です。キリスト教では伝統的にこの幼児たちをイエスのために命を落とした最初の殉教者であるとみなしてきました。

【補記二】

標準的に使用されている「少年十字軍」という訳語は、桃太郎や白虎隊のような戦闘的なイメージを含んでいるように感じられます。これに対し、欧州諸語のニュアンスは「子供十字軍」に近く、平和的でいとけなさを感じさせるものではないかと思われます。本稿では、表題以外は「子供十字軍」と表記しました。


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