日本神道の流行神


■日本神道の神:八百万の神

神道は、自然信仰(アニミズム)、民俗信仰(シャーマニズム)、祖霊信仰、怨霊信仰などに由来する八百万の神(やおよろずのかみ)を崇拝する日本の伝統宗教です。

神道の起源は非常に古く、縄文時代を起点に、弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられています。

こうして日本の風土や日本人の生活習慣に基づき自然に生じた神観念は、やがて、自然神から人格神へ、精霊的な神から理性的神へ、恐ろしい神から貴い神へ、進化発展を遂げてきたと推察されます。

神道の神は、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」ですが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」性格も持っています(荒魂・和魂)。

神道には人間も死後神になるという思想があり、神話に残る祖霊に加えて、地域社会や国家のために働いた人物、国家に反逆し戦乱を起こした人物、不遇な晩年を過ごし死後怨霊として祟りをなした人物なども、神として神社に祀られ、崇敬されることがあります。


■日本神道の神:流行神と分霊

大衆の人気を集めた神は流行神(はやりがみ)と呼ばれ、分霊の勧請によって神社の数を増やしていきました。

神道では、神霊は無限に分けることができ、分霊しても元の神霊に影響はなく、分霊も本社の神霊と同じ働きをするとされます。


■日本神道の神:人気の流行神

大衆の人気を集めた流行神として、上図に、多くの神社に分霊されている七系統の神を示します。八幡神・伊勢神・天神・稲荷神・熊野神・諏訪神・祇園神です。


■八幡神

八幡神は、もともとは北九州の豪族・宇佐氏の氏神として宇佐神宮(大分県宇佐市)に祀られていたと考えられています。この神が数々の奇端を現して、大和朝廷の守護神となります。奈良時代から平安時代にかけて八幡神は応神天皇と習合し始めます。

現在の神道では、応神天皇(誉田別命)を主神として、応神天皇の母である神功皇后と、比売神とを合わせて「八幡三神」として祀っています。

神功皇后は、夫の仲哀天皇が急死した後、住吉大神の神託により、お腹に子供(後の応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り、朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めます。新羅は戦わずに降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約します(三韓征伐)。

神功皇后は、渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせました。帰路、筑紫の宇美(うみ)で応神天皇を産み、志免(しめ)でお紙目を代えたと伝えられます。

比売神は、天照大御神と素戔嗚尊との誓いで誕生した宗像三女神、すなわち多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三柱とされます。

宗像氏ら海人集団の祭る神であった宗像三女神が、神功皇后の三韓征伐の成功に貢献したことにより、大和朝廷の神として崇拝を受けたと考えられます。

応神天皇もしくは仁徳天皇・履中天皇の頃から「倭の五王」の時代が始まり、国家は繁栄します。しかし、応神天皇から数えて皇位十代目の武烈天皇の死後、後嗣が断絶します。

この危機を救うために、越前から「応神天皇五世の孫」である男大迹王(をほどのおおきみ)が迎えられ、群臣の要請に従って継体天皇として即位します。皇統は、応神天皇から継体天皇を経て、現在の皇室まで繋がります。

八幡神は、応神天皇の神霊とされたことから皇祖神としても位置づけられ、天照大御神に次ぐ皇室の守護神とされました。宇佐神宮や石清水八幡宮は、伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟として崇敬されました。

奈良時代に朝廷は宇佐神宮に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈ります。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなりました。

平安時代以降、清和源氏・桓武平氏等の武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請されました。

▲図は、月岡芳年作『日本史略図会・第十五代神功皇后』です。


■伊勢神

伊勢神とは、伊勢神宮(三重県伊勢市)に祀られる神を意味します。伊勢神宮には、太陽を神格化した天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれます。

天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨した際、天照大御神は三種の神器を授け、その一つ八咫鏡(やたのかがみ)に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし」として天照大御神自身の神霊を込めたとされます。

八咫鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれ、天皇自らが観察していました。崇神天皇の治世に鏡は大和笠縫邑に移され、皇女豊鍬入姫がこれを祀ることとされました。垂仁天皇の治世に天照大御神の祭祀が皇女倭姫命に託され、鏡は伊勢神宮内宮に御鎮座しました。

古代においては、伊勢神は皇室の氏神として、天皇以外の奉幣が禁止されました(私幣禁断)。天武天皇の治世に斎宮が制度化されました。

中世においては、伊勢神は日本全体の鎮守として、全国の武士から崇敬されます。神仏習合の教説が広まり、天照大御神は観音菩薩の化身とされますが、やがて宇宙神である大日如来と同一視されるようになります。

戦国時代になると、神宮領が侵略され、経済的基盤が失われました。資金獲得のため、神宮の信者を増やし、各地の講を組織させる御師が台頭します。

近世においては、お蔭参り(お伊勢参り)が流行しました。庶民からは親しみを込めて「お伊勢さん」と呼ばれ、弥次さん・喜多さんの『東海道中膝栗毛』で語られるように、多くの民衆が全国から参拝しました。

伊勢神宮は、古代においては宇佐神宮、中世においては石清水八幡宮と共に、二所宗廟の一つとされました。明治時代から戦前までの近代社格制度においては、すべての神社の上に位置する神社として、社格の対象外とされました。

▲図は、春斎年昌作『岩戸神楽之起顕』です。八百万の神々は岩戸に隠れた天照大御神を外へ引き出す事に成功します。


■天神

天神とは、神格化された菅原道真(すがわらのみちざね)を指します。

菅原道真は忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇ります。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され、現地で没しました。

菅原道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったことから、道真は雷の神である天神(火雷天神)と同一視されるようになりました。また、道真が優れた学者であったことから天神は「学問の神様」ともされます。

道真の墓所・廟には太宰府天満宮(福岡県太宰府市)が造営され、道真が好んだという右近の馬場には道真の怨霊を鎮めるために朝廷により北野天満宮(京都市上京区)が造営され、この両社が信仰の中心的役割を果たしています。

▲図は、歌川国貞作『菅原道真公』です。


■稲荷神

稲荷神は、もともとは京都一帯の豪族・秦氏の氏神として山城国稲荷山、すなわち現在の伏見稲荷大社(京都市伏見区)に祀られていたとされます。

『山城国風土記』逸文によれば、秦氏の祖先である伊呂具秦公(いろぐのはたのきみ)は富裕に驕って餅を的にしたところ、その餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去り、そこに稲が生りました。伊呂具はその稲の許へ行き、過去の過ちを悔いて、そこの木を根ごと抜いて屋敷に植え、それを祀りました。神の名は、稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」の字が宛てられたとされます。

稲荷神は、稲の神であることから日本神話に記載される食物神の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と同一視され、後に他の食物神も習合します。また、狐は穀物を食い荒らすネズミを捕食すること、狐の色や尻尾の形が実った稲穂に似ていることから、狐が稲荷神の使いに位置付けられました。

都が平安京に遷されると、この地を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、それにより稲荷神が広く信仰されるようになります。東寺建造の際に秦氏が稲荷山から木材を提供したことで、稲荷神は東寺の守護神と見なされるようになります。

東寺では、真言密教における荼枳尼天(だきにてん、インドの女神ダーキニー)に稲荷神が習合されました。荼枳尼天は人の心臓を食らう夜叉、または、羅刹の一種で、中世には霊狐と同一の存在と見なされました。真言宗が全国に布教されると、荼枳尼天の概念を含んだ稲荷信仰が全国に広まり、祟り神としての側面も強くなったといわれます。

中世以降、工業・商業が盛んになってくると、稲荷神は農業神から工業神・商業神・屋敷神など福徳開運の万能の神と見なされるようになります。勧請の方法が容易な申請方式となったため、農村だけでなく町家や武家にも盛んに勧請されるようになりました。

江戸時代に入って稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるようになると、稲荷狐が稲荷神であるという誤解が広がりました。またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もありました。

明治政府による神仏分離の際、多くの稲荷社は宇迦之御魂神などの日本神話に登場する神を祀る神社になりましたが、一部は荼枳尼天を本尊とする寺になりました。

▲図は、歌川広重作『名所江戸百景・王子装束ゑの木大晦日の狐火』です。毎年大晦日の夜になると関八州のキツネたちが王子(東京都北区)のエノキの下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したと伝わります。


■熊野神

熊野神とは、熊野三山(和歌山県)に祀られる神です。

熊野は、日本古来の山岳信仰の聖地でした。山岳信仰と仏教が習合して修験道が成立すると、熊野は修験道の修行の場となりました。修験道は、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって超自然的な能力(験力)を獲得し、その能力によって衆生を救済することを目指します。

神仏習合により、熊野神は「熊野権現」と呼ばれ、熊野本宮大社の主祭神である家都御子神(けつみこのかみ)は阿弥陀如来、熊野速玉大社(新宮)の熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)は薬師如来、熊野那智大社の熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)は千手観音とされました。

平安時代後期、阿弥陀信仰が強まり浄土教が盛んになってくる中で、熊野の地は浄土と見なされるようになりました。

院政期には歴代の上皇の参詣が頻繁に行なわれ、後白河院の参詣は三十四回にも及びました。上皇の度重なる参詣に伴い、在地勢力として熊野別当家が形成され、熊野街道の発展と共に街道沿いに九十九王子と呼ばれる熊野権現の御子神が祀られました。

鎌倉時代に入ると、熊野本宮大社で一遍上人が阿弥陀如来の化身であるとされた熊野権現から神託を得て、時宗を開きます。

熊野三山への参拝者は、日本各地で修験者(先達)によって組織され、檀那あるいは道者として熊野三山に導かれ、三山各地で契約を結んだ御師に宿舎を提供され、祈祷を受けると共に山内を案内されました。

熊野と浄土信仰の繋がりが強くなると、念仏聖や比丘尼のように民衆に熊野信仰を広める者も現われました。また観音の化身とされた牟須美神を祀る那智大社の那智浜からは、観音が住むという補陀落を目指して、大勢の僧侶が小船で太平洋に旅立ちました。

次第に民衆も熊野に頻繁に参詣するようになり、「蟻の熊野詣で」と呼ばれるほどに盛んになりました。

各社で発行される熊野牛王符は「牛王宝印」(ごおうほういん)とも呼ばれ、護符としてのほかに、起請文(誓約書)の料紙として使われ、この牛王符に書いた誓約を破ると神罰を受けると信じられました。

熊野権現は日本全国に勧請され、各地に熊野神社が建てられました。中でも沖縄では、大多数の神社が熊野権現を祀っています。

盛んであった熊野信仰も江戸時代後期の紀州藩による神仏分離政策で聖・山伏・比丘尼らの活動が規制され、明治の神仏分離令により衰退が決定的となりました。

▲図は、歌川国芳作『文覚と矜羯羅童子・制多迦童子』です。熊野の那智滝で荒行を行う文覚(平家物語)が描かれています。


■諏訪神

諏訪神とは、諏訪大社(長野県)に祀られる神です。

諏訪大社は、日本最古の神社の一つといわれるほど古くから存在します。諏訪大社には、二社四宮があります。諏訪湖南岸に鎮座する上社の本宮・前宮と、諏訪湖北岸に鎮座する下社の秋宮・春宮です。

主祭神は、建御名方神 (たけみなかたのかみ)と妃の八坂刀売神 (やさかとめのかみ)です。両神とも上社・下社の両方で祀られています。諏訪大社に祀られていたのは、もともとは諏訪地方の土着の神々であったとも言われています。

日本神話によれば、天照大御神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りするように迫ります。これに対して、大国主命の次男である建御名方命(たけみなかたのみこと)が国譲りに反対し、武甕槌命に相撲を挑みます。しかし、建御名方命は負けてしまい、諏訪まで逃れます。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされます。

諏訪神は、『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」と謡われているように、軍神として崇敬されました。また、中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業の守護祈願でも知られます。

▲図は、両国国技館壁画『国譲りの力くらべ』(日本相撲協会所有)です。諏訪湖畔で武甕槌命に服従する建御名方命が描かれています。


■祇園神

祇園神とは、仏教の牛頭天王(ごずてんのう)と神道の素戔嗚尊(すさのおのみこと)が習合した神です。京都市東山区の八坂神社もしくは兵庫県姫路市の広峯神社が総本社とされます。

牛頭天王は仏教における天部の一つです。インドのインドラ神の化身の一つが仏教に取り入れられ、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされました。

素戔嗚尊は、父である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)から夜の国もしくは海原を治めるように定められますが、母である伊弉冉尊(いざなみのみこと)のいる根の国に行きたいとそれを断ります。素戔嗚尊は、根の国に向かう前に姉の天照大御神に別れの挨拶をしようと高天原へ上りますが、粗暴を働いて追放されます。

牛頭天王と素戔嗚尊が習合したのは、両神とも行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたためです。本地仏は薬師如来とされました。

平安時代に成立した御霊信仰を背景に、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが祇園信仰の原形です。その祭礼を祇園御霊会といい、京の市民によって祇園社(現在の八坂神社)で行われるようになりました。祭礼は後に「祇園祭」と呼ばれます。

中世までには祇園信仰が全国に広まり、牛頭天王を祀る祇園社あるいは牛頭天王社が作られ、祭列として御霊会(あるいは天王祭)が行われるようになりました。

明治に神仏分離が行われた際、仏教の神である牛頭天王は祭神から外され、神道の神である素戔嗚尊だけが残されます。同時に神社名から仏教用語の「祇園」や「牛頭天王」が外され、総本社である京都の祇園社も八坂神社と改名されました。しかし、地名や祭礼名には現在も「祇園」が使用されています。

▲図は、月岡芳年作『日本略史・素戔嗚尊』です。高天原から追放された素戔嗚尊は、出雲へ降りると一転して英雄的な性格を帯び、八岐大蛇を退治します。


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