日本仏教の十三宗


日本仏教の十三宗

■日本仏教の十三宗

飛鳥時代、六世紀半ばの欽明天皇期に、仏教が百済から日本へ公伝されました。

奈良時代、平城京を中心に「南都六宗」と呼ばれる仏教の宗派(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗)が栄えました。これらの六宗は学派的要素が強く、鎮護国家という理念の下で、仏教の教理の研究が行われました。

仏教が定着するにつれて、実は日本の神々も仏が化身として現れた「権現」であるという本地垂迹説が起こり、様々な神の本地(仏)が定められました。

平城京における仏教勢力の政治的影響が高まると、桓武天皇はこれを厭い、平安京に遷都します。奈良仏教に対抗する新仏教として「平安二宗」と呼ばれる密教系の宗派(最澄の天台宗、空海の真言宗)が朝廷の保護を受けて栄えます。

平安時代中期は釈迦入滅の二千年後にあたり、仏教が滅びる暗黒時代、すなわち末法の世が始まったと考えられました。現世での幸福をあきらめ、阿弥陀如来の観相と極楽浄土への往生に専念する浄土信仰が流行しました。

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、主として比叡山延暦寺(天台宗総本山)で学んだ僧侶たちによって仏教の民衆化が図られ、融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗などの新しい宗派が作られました。これらの宗派では、難しい理論や厳しい修行ではなく、在家の信者が生活の合間に実践できるような易しい教え(易行)が説かれています。

鎌倉時代にはさらに、中国から禅宗の二宗派(曹洞宗・臨済宗)がもたらされました。禅宗は、貴族に対抗する新仏教として武士たちに愛好され、大いに栄えました。

室町時代、足利尊氏が京都に武家政権を成立させると、以前から武士に人気のあった禅宗の五山が定められ、臨済宗は幕府の保護を受けます。

応仁の乱後になると、治安の悪化とともに宗教勢力も武力化を強め、浄土真宗本願寺教団による一向一揆や、京都の法華宗徒による法華一揆などの宗教戦争も起こりました。

江戸時代、権勢を掌握した徳川家康は、寺院諸法度を制定し、寺社奉行を置き、仏教を取り締まりました。さらに人々を必ずいずれかの寺院に登録させて(寺請制度)、布教活動を実質的に封じました。

江戸時代初期、中国の禅僧・隠元(いんげん)が来日し、黄檗宗(おうばくしゅう)を開教するとともに、当時の中国における文化や文物を伝えました。

明治時代、新政府の神道重視の政策の結果、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数が減少しました。

昭和十四年(1939年)、戦時態勢強化の中で「宗教団体法」が制定され、神道以外の一般の宗教団体にも初めて法人化が認められました。

同法施行前には仏教として13宗56派が公認されていました。「十三宗」とは法相宗・華厳宗・律宗・天台宗・真言宗・融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗・曹洞宗・臨済宗・黄檗宗です。

同法施行後、13宗56派は28宗派に再編され、第二次大戦後はさらに分派独立したものが多くありますが、伝統と実勢を持った「十三宗」の系譜は、いずれも現代に引き継がれています。


法相宗

■法相宗

法相宗(ほっそうしゅう)は、中国唐代に玄奘三蔵がインドからもたらした瑜伽行派(唯識派)の思想を継承する、中国創始の大乗仏教宗派です。

法相(ほっそう)とは「存在のあり方」を意味する言葉です。法相宗では「存在現象のあり方を我々人間がどのように認識しているのか」という研究が進められ、最終的に「一切の存在現象はただ識に過ぎない」とします。

法相宗は、その教義がインド仏教を直輸入した色彩が濃く、教理体系が繁雑をきわめたこともあり、華厳宗が隆盛になるにしたがい、中国では次第に衰えました。

日本仏教の法相宗は、飛鳥時代の白雉四年(653年)に道昭が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後に飛鳥法興寺でこれを広めました。その後さらに、遣唐使での入唐求法僧侶により数次にわたって伝えられました。

日本の法相宗は現在では、興福寺(奈良県奈良市、本尊:釈迦如来)と薬師寺(奈良県奈良市、本尊:薬師三尊)の二寺を大本山としています。


華厳宗

■華厳宗

華厳宗(けごんしゅう)は、大乗仏典「華厳経」を根本経典として独自の教学体系を立てた、中国創始の大乗仏教宗派です。唐代の杜順を開祖とします。

「華厳経」には、歴史的な人物としての釈迦を超えた、宇宙の真理を全ての人に照らし悟りに導く毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)が本尊として示されています。毘盧舎那仏は、略して廬舎那仏(るしゃなぶつ)・舎那仏(しゃなぶつ)とも表記されます。毘盧舎那仏を密教における大日如来(大毘盧遮那仏)と同一視する説もあります。

日本仏教の華厳宗は、奈良時代に唐から招来された審祥を開祖とします。新羅学生と自称し、唐において華厳宗第三祖の法蔵に学んだ審祥は、金鐘寺(後の東大寺)の良弁に招かれて天平八年(736年)に来日しました。

審祥は、金鐘寺において「華厳経」の講説を行い、その思想が反映されて、東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立されました。

日本の華厳宗は、東大寺(奈良県奈良市、本尊:盧舎那仏)を大本山としています。


律宗

■律宗

律宗(りっしゅう)は、戒律の研究と実践を行う、中国創始の大乗仏教宗派です。

中国では正式な僧となるには戒律を修める必要があったため、古くから研究が行われました。東晋代に「十誦律」「四分律」「摩訶僧祇律」などの戒律が漢訳されると、戒律の研究が本格化し、律宗などへ発展しました。

日本仏教の律宗は、奈良時代に唐から招来された鑑真を開祖とします。鑑真は六度の航海の末に天平勝宝五年(753年)に来日し、東大寺に戒壇を開き、聖武上皇や称徳天皇を初めとする人々に戒律を授けました。鑑真は後に、唐招提寺を本拠として戒律の研究に専念します。

日本の律宗は、唐招提寺(奈良県奈良市、本尊:廬舎那仏)を総本山としています。


天台宗

■天台宗

天台宗(てんだいしゅう)は、大乗仏典「法華経」を根本経典とする、中国創始の大乗仏教宗派です。隋代の智顗(ちぎ)を開祖とします。

日本仏教の天台宗は、最澄(伝教大師)によって平安時代初期に開かれました。

延暦二十三年(804年)、最澄は還学生(短期留学生)として遣唐使船で唐に渡ります。霊地・天台山におもむき、天台大師智顗直系の道邃和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学びました。また、越州の龍興寺では順暁阿闍梨から密教、翛然禅師から禅を学びました。

最澄は、このように「法華経」を中心に天台教学・戒律・密教・禅の四宗をともに学び、翌年(延暦二十四年)に帰国して「四宗相承」の日本天台宗を開きました。

この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗などの南都六宗が伝えられていましたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派でした。

最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こります。また、鑑真がもたらした戒壇院を独占していた奈良仏教に対して、最澄は比叡山に戒壇を設立することをくわだて、対立を深めました。

当時の朝廷は、奈良仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教を求めていたことから、天台宗は朝廷の保護を受けて繁栄します。

総本山の比叡山延暦寺(滋賀県大津市)は、延暦七年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりです。

四宗相承の延暦寺は、総合大学としての性格を持ち、数々の名僧を輩出しました。特に、新仏教の開祖の多くが若い日に比叡山で修行していることから「日本仏教の母山」とも称されます。


真言宗

■真言宗

真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって平安時代初期に開かれた、日本仏教の密教系の宗派です。空海が中国唐代の長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としています。

空海は、延暦二十三年(804年)に留学僧として最澄と同じ遣唐使の一行に加わり、二年間の勉学の後に帰国して、真言宗を開きます。

真言宗は、宇宙の本体であり絶対の真理である大日如来を本尊とし、「即身成仏」と「密厳国土」を教義とします。即身成仏とは、人間がこの肉身のままで究極の悟りを開き、仏になるということです。密厳国土とは、大日如来のいる浄土のことであり、実はこの世界がそれにほかならないと説きます。

空海は、弘仁七年(816年)に高野山金剛峯寺(和歌山県伊都郡高野町、本尊:薬師如来)を修禅の道場として開創し、弘仁十四年(823年)に嵯峨天皇より勅賜された東寺(京都市南区、本尊:薬師如来)を真言宗の根本道場として宗団を確立します。


真言宗

■融通念仏宗

融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)は、天台宗の僧侶であった良忍(聖応大師)によって平安時代末期に開かれた、日本仏教の浄土系の宗派です。

永久五年(1117年)、良忍が天台宗の僧侶として大原来迎院で修行中、阿弥陀如来から速疾往生(誰もが速やかに仏の道に至る方法)の偈文「一人一切人/一切人一人/一行一切行/一切行一行/十界一念/融通念仏/億百万編/功徳円満」を授かり、融通念仏宗を開宗しました。

融通念仏宗では「華厳経」・「法華経」を正依とし、「浄土三部経」(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)を傍依として、「一人の念仏が万人の念仏に通じる」という立場から、口称の念仏で浄土に生まれると説きます。

融通念仏宗の総本山である大念仏寺(大阪市平野区、本尊:阿弥陀如来と十菩薩)は、鳥羽上皇の勅願により大治二年(1127年)に宗祖良忍が開創しました。日本最初の念仏道場とされます。

◆参考:大乗仏教において、阿弥陀如来は西方極楽浄土の教主とされ、阿弥陀三尊としては脇侍に観音菩薩・勢至菩薩が配されます。また、薬師如来は東方瑠璃光浄土(浄瑠璃世界)の教主とされ、薬師三尊としては脇侍に日光菩薩・月光菩薩が配されます。


浄土宗

■浄土宗

浄土宗(じょうどしゅう)は、天台宗の僧侶であった法然(円光大師)によって鎌倉時代初期に開かれた、日本仏教の浄土系の宗派です。

法然は、はじめ比叡山延暦寺で天台教学を学び、承安五年(1175年)、四十三歳の時に善導撰述の「観無量寿経疏」によって専修念仏の道に進み、比叡山を下りて念仏の教えをひろめました。この年が、浄土宗の立教開宗の年とされます。

浄土宗の本尊は阿弥陀如来、教義は専修念仏を中心とします。法然は、末法においては称名念仏だけが相応の教えであり、聖道門を捨てて浄土門に帰すべきで、雑行を捨てて念仏の正行に帰入すべきと説きます。

法然は、国家権力との関係を断ちきり、個人の救済に専念する姿勢を示しました。日本仏教史上初めて、一般の女性にひろく布教をおこなったのも法然です。法然の教えは都だけではなく、地方の武士や庶民にも広がり、摂関家の九条兼実ら新時代の到来に不安をかかえる中央貴族にも広まりました。

浄土宗の総本山である知恩院(京都市東山区、本尊:法然上人像と阿弥陀如来)は、法然が後半生を過ごし没したゆかりの地に建てられた寺院です。


■浄土真宗

浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、法然の教えを継承した親鸞によって鎌倉時代初期に開かれた、日本仏教の浄土系の宗派です。

親鸞は、天台宗の堂僧として比叡山において二十年にわたり厳しい修行を積みましたが、自力修行の限界を感じ、比叡山と決別して下山します。聖徳太子の夢告を得て法然の専修念仏の教えに触れ、法然の教団に加わります。

建永二年(1207年)、法然の教団が既存仏教教団から糾弾され、後鳥羽上皇は専修念仏の停止と、法然の門弟四人の死罪、法然および親鸞ら弟子七人の流罪を命じます。

親鸞は、流罪から赦免された後、東国で布教活動を行い、寛元五年(1247年)に「教行信証」を完成させます。親鸞の没後、この年が浄土真宗の立教開宗の年と定められます。

親鸞は、法然によって明らかにされた「浄土往生を説く真実の教え」を継承し、自らが開宗する意志は無かったとされます。親鸞の念仏集団の隆盛が、既存仏教教団や浄土宗他派との軋轢を生む中で、教義の相違が明確となり、親鸞の没後に浄土真宗が宗派として確立されます。

浄土真宗の教義では、阿弥陀如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」を信受することによって、ただちに浄土へ往生することが決定します。念仏は、報恩のために発せられるのであり、浄土往生の条件ではないとされます(信心正因、称名報恩)。

浄土真宗は、ただ阿弥陀如来の働きに任せるだけで全ての人は往生できるという教えから、宗教儀式や戒律にとらわれず、僧侶に肉食妻帯を許します。

◆本願寺教団(一向宗)

親鸞の死後、曾孫にあたる覚如は祖廟継承の正当性を主張し、廟所(京都市東山区、現在は故地)に「大谷本願寺」を建てて本願寺三世と称しました。

室町時代の後期に登場した本願寺八世の蓮如は、当時の民衆の成長を背景に「講」と呼ばれる組織を築き、人々が平等に教えを聴き団結できる場を提供しました。また親鸞の教えを安易な言葉で述べた「御文」を著作し、民衆を広く教化しました。この事により本願寺は急速に発展・拡大し、一向宗と呼ばれるようになりました。

この講の信者の団結力は、蓮如の制止にもかかわらず、大名などの施政者に向けられました。中世末の支配体制に不満を持つ村々に、国人・土豪が浄土真宗に改宗することで加わり、一郡や一国の一向宗徒が一つに団結した「一向一揆」と呼ばれる反乱が各地で起こるようになります。

天文元年(1532年)、京都の山科本願寺が日蓮宗徒に焼き討ちされ(天文法華の乱)、教団は本拠地を大坂石山に移します。石山本願寺は、城郭にも匹敵する伽藍とその周辺に形成された寺内町を中心に大きく発展し、その脅威は時の権力者たちに恐れられました。

元亀元年(1570年)、本願寺十一世の顕如は足利義昭に味方し、三好氏を攻めていた織田信長の陣営を攻撃しました(石山合戦)。十年にわたる戦いの後、天正八年(1580年)、本願寺側が信長の和議を受諾して武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結しました。

天正十九年(1591年)、顕如は豊臣秀吉から京都七条堀川に土地を与えられ、本願寺を再興します。

慶長七年(1602年)、教団内部の対立に徳川家康が介入し、当時最大の宗教勢力であった本願寺教団は、顕如の三男准如を十二世宗主とする西本願寺(浄土真宗本願寺派)と、京都七条烏丸に新たに土地を与えられた長男教如を十二代宗主とする東本願寺(真宗大谷派)とに分裂しました。


時宗

■時宗

時宗(じしゅう)は、浄土宗を学んだ一遍(証誠大師・円照大師)によって鎌倉時代末期に開かれた、日本仏教の浄土系の宗派です。

一遍は、十三歳の時から十年以上にわたり、法然の孫弟子に当たる聖達の下で浄土宗を学びました。父の死をきっかけに還俗しますが、三十二歳で再び出家し、信濃国の善光寺や伊予国の窪寺・岩屋寺で修行しました。

文永十一年(1274年)に遊行を開始し、四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」を記した念仏札の配布(賦算)を始めます。

一遍は入門者を増やし、彼らを「時衆」として引き連れるようになります。さらに、各地を行脚するうち、弘安二年(1279年)に信濃国で踊り念仏を始めます。

一遍の教えでは、仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶとし、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説きます。

一遍亡き後、時衆はいったん自然消滅しますが、有力な門弟の他阿真教によって再結成されます。それ以後続く歴代の遊行上人は、諸国を遊行し、念仏札の配布(賦算)と踊り念仏を行うことを慣例としています。

遊行上人の四代目を巡って、当麻道場無量光寺(神奈川県相模原市)と藤沢道場清浄光院(のち清浄光寺、神奈川県藤沢市)に分裂し、やがて藤沢道場が優勢となります。江戸時代に清浄光寺は時宗総本山となり、遊行寺と通称されています。


日蓮宗

■日蓮宗

日蓮宗(にちれんしゅう)は、天台宗の僧侶であった日蓮(立正大師)によって鎌倉時代中期に開かれた、日本仏教の法華系の宗派です。

日蓮は、天台宗の寺であった安房国清澄寺で出家し、比叡山で就学した後、多くの寺院へ遊学し、八年後に清澄寺へ帰山します。

建長五年(1253年)、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、清澄寺で初説法を行い、名を日蓮と改めます(立教開宗)。翌年には清澄寺を退出し、鎌倉で辻説法を開始します。

日蓮は「法華経」(妙法蓮華経)を釈迦の正しい教えとします。「南無妙法蓮華経」とは「法華経に帰依する」の意であり、「題目」は経典の表題を唱えることに由来します。

文応元年(1260年)、日蓮は「立正安国論」を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送ります。日蓮は、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして、対立宗派を非難します。

「立正安国論」は、その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも政治批判と見なされます。翌年、日蓮は伊豆国に流罪となり、三年後に赦免されます。

文永八年(1271年)、鎌倉にいた日蓮は幕府や諸宗を批判したとして捕縛・連行され、翌日、斬首するために土牢から引きだされます。しかし、斬首は失敗し、刑は中止されます。評定の結果、日蓮は佐渡へ流罪となり、三年後に赦免されます。

文永十一年(1274年)、身延一帯の地頭である南部実長の招きに応じ、西谷の地に草庵を構えます。やがて大坊が整備され、身延山久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町、本尊:三宝尊)が開かれました。


臨済宗

■臨済宗

臨済宗(りんざいしゅう)は、中国で唐代から宋代にかけて隆盛した禅宗五家(曹洞・臨済・潙仰・雲門・法眼)のひとつです。晩唐の臨済義玄を宗祖とします。その宗風は「痛快」と評されます。

日本仏教の臨済宗は、栄西を開祖とします。栄西は、比叡山延暦寺において出家し、天台教学を学びました。二度にわたって宋へ渡航し、二度目の渡航において、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事します。

建久二年(1191年)、栄西は虚庵懐敞から臨済宗の嗣法の印可を受け、帰国します。

当時、京都では比叡山延暦寺の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難でした。栄西は、初めは九州博多に聖福寺を建て、後には鎌倉に移り、北条政子の援助で建立された寿福寺の開山となります。

建仁二年(1202年)、鎌倉幕府二代将軍・源頼家の援助により、京都における臨済宗の拠点として建仁寺(京都市東山区、本尊:釈迦如来)が建立されました。以後、栄西は幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めました。

臨済宗では、師から弟子への悟りの伝達(法嗣)を重んじ、釈迦を本師釈迦如来大和尚、達磨を初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼びます。弟子を悟りへ導く手段として、公案(禅語録から抽出した師と弟子の問答集)が利用されます。

同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられました。特に室町幕府により保護・管理され、五山十刹が生まれました。

◆参考:禅宗は、中国で確立された、坐禅を基本的な修行形態とする大乗仏教の宗派です。宗祖と伝えられる達磨は、五世紀後半にインドから中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺において面壁を行ったとされます。現在に伝わる全ての禅宗は、唐代から宋代にかけて隆盛した「五家七宗」と呼ばれる法嗣に由来します。


曹洞宗

■曹洞宗

曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国で唐代から宋代にかけて隆盛した禅宗五家(曹洞・臨済・潙仰・雲門・法眼)のひとつです。晩唐の洞山良价を宗祖とします。その宗風は「細密」と評されます。

日本仏教の曹洞宗は、道元を開祖とします。道元は、比叡山延暦寺において出家し、天台教学を学びました。やがて、亡き栄西を慕って建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事します。

貞応二年(1223年)、道元は師の明全とともに宋へ渡って諸山を巡り、天童山で曹洞宗の天童如浄に出会います。如浄のもとで座禅修行に励み、嗣法の印可を受けて帰国します。

道元は帰国後、初めは建仁寺に居住し、後には深草に興聖寺を建立して、説法と著述に励みますが、比叡山延暦寺からの激しい迫害に遭います。

道元は、迫害を避けて新たな道場を築くため、信徒である越前国志比庄の土豪・波多野義重の領地に移り、寛元二年(1244年)、永平寺(福井県吉田郡永平寺町、本尊:釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来)を開創します。

曹洞宗では、「正伝の仏法」を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として釈迦を本尊と仰ぎます。無限の修行こそが成仏である(修証一如)という道元の主張に基づいて、ひたすら坐禅すること(只管打坐)に専念します。

同じ禅宗の臨済宗が時の中央の武家政権に支持されたのに対し、曹洞宗は地方武家・豪族・下級武士・一般民衆に広まりました。


黄檗宗

■黄檗宗

黄檗宗(おうばくしゅう)は、江戸時代初期に来日した中国臨済宗の隠元隆琦(いんげんりゅうき)を開祖とする、日本仏教の禅系の宗派です。

長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じたことから、隠元が日本へ招請され、承応三年(1654年)に長崎へ来港しました。隠元のもとには、中国明代の禅の新風と隠元の高徳を慕う具眼の僧や学者たちが雲集しました。

隠元は、明代の書をはじめとした当時の中国における文化や文物も伝えました。「インゲンマメ(隠元豆)」の名称に名を残し、日本における煎茶道の開祖ともされます。

隠元は、ついには江戸幕府四代将軍・徳川家綱と会見します。その結果、山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、新寺を開創して、中国の故郷の寺と同名の「黄檗山萬福寺」と名付けました。

寛文三年(1663年)、隠元は完成したばかりの萬福寺(京都府宇治市、本尊:釈迦如来)の法堂で祝国開堂を行い、授戒「黄檗三壇戒会」を厳修しました。これによって、隠元は日本禅界の一派の開祖となりました。

黄檗宗には、後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依しました。また、社会事業などを通じて民間の教化にも努めたため、次第に教勢が拡大しました。


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